続・非日常の9日間――「お通じはありましたか?」「お小水は?」

「お通じはありましたか?」。朝一番に僕のベッドにやってきた女性の看護師の第一声である。「いや、まだ・・・」と僕。右の肺に出来た腫瘍の除去手術で慶応義塾大学病院に入院中のことだ。

病院側の説明によると、手術時に麻酔を使う結果、腸の動きが低下し、便秘になることがあるそうだ。僕もそのせいだろう、手術後1日経っても、2日経っても「通じ」がない。普段はめったに起きないことだ。毎食後、下剤を飲まされているが、効き目がない。看護師がお腹を温めてくれたが、それでも駄目。自分で腹部を一生懸命にさすってみるのだが、通じの気配はいっこうに起こらない。揚げ句は下腹部が張って、少し痛くなってきた。

ふと、6年ほど前、中国南部の南寧で入院した時のことが脳裏に浮かんだ。当時、僕は日本語などを教える塾をこの地でやっていたのだが、ある朝、下腹部が痛くなり我慢できなくなった。病院に駆けつけ、いろんな検査の後、「浣腸」をやらされた。子どもの時以来のことだったが、おかげですっきりした。

下腹部が痛くなった原因は実にばかばかしいことだった。そのころ、エンドウ豆を乾燥して炒ったものを毎晩、酒のつまみにしていた。多い時には茶碗1杯分もつまんでいた。そのエンドウ豆が酒と一緒になって腹の中で膨れ、腸の「流通」を阻害したようなのだ。浣腸はベッドのそばのトイレに入って自分でやったが、病室には看病に来てくれた若い女性の塾生たちがいて照れ臭かった。

そんなことを思い出したので、手術後3日目の夜、看護師に浣腸させてほしいと頼んでみた。もちろん、自分でするつもりだった。すると、浣腸の代わりに「座薬」を持ってきて、「さあ、私が入れましょう」とおっしゃる。いや、いや、そんな恥ずかしいことを女性にやらせるわけにはいかない。「自分でやれます」と言って、ベッドで試してみた。

ところが、2度、3度とやってみても、うまくお尻の穴に入れられない。もう、やむをえない。観念して「すみませ~ん」と看護師を呼び戻した。やってもらって分かったのだが、座薬というのは、かなりお尻の穴の奥深くに差し込むもののようだ。僕はそれが分からなくて、穴の入り口でうろうろしていたのだ。

恥も外聞も捨てた(?)おかげで、その夜遅くやっと通じがあった。手術前から数えて、80時間以上が経っていた。翌日、座薬を入れてくれた看護師に会った時、「ありました」と報告したら、「よかったですね」と、満面の笑顔で喜んでくれた。

入院中、女性の看護師が入れ代わり立ち代わりやってきて、随分と世話になったが、退院して2週間、3週間と経つと、顔も名前もほとんど忘れてしまった。ただ、座薬の看護師の名前と理知的な顔つきだけははっきりと覚えている。

通じとともにもうひとつ困ったのはおしっこ、病院で言う「お小水」である。前回にも書いたのだが、手術の時に尿道に「カテーテル」なる管が入れられ、おしっこはそうした管を通じて、体につながった瓶の中に流れていってくれる。いちいちトイレに行く必要がなく、それはそれでラクチンだったのだが、手術後2日目にカテーテルがはずされた。

そして、自分でおしっこをしようとすると、尿道が飛び上がるほど痛む。看護師から「お小水はどれほど出ましたか」と聞かれたのだが、とんでもない。激痛のせいで、ほんの1滴、2滴で終わってしまう。ただ、この痛みのほうは何回かトイレに通っているうちに収まってきたのだが、もうひとつ困ったことが起きた。

通じがない時に、医師や看護師から「水をたくさん飲んでください」と言われた。確かにそうだと思い、病院内のコンビニから水のペットボトルを次々に買ってきて、がぶがぶと飲んでいた。そのせいだろう、夜中、ベッドに横になっていても、すぐにおしっこに行きたくなる。

時計を見ると、前回に行ってから30分ほどしか経っていない。こんなことを10回近く繰り返した。看護師から「お小水の量を記録してください」と言われていたので、トイレに備え付けの紙の計量カップでいちいち測っていたが、1回150~200ミリリットル。結構な量である。僕は年齢のせいか、普段からいくらかは頻尿気味だけど、こんなのは初めての体験だった。

お通じにお小水――入院前には想像もしなかった苦難だった。でも、退院すると、たちまちにして雲散霧消し、生活は「日常」に戻った。

非日常の9日間――肺の腫瘍除去手術で入院

今年の初め、周りの人たちから「咳がよく出るみたいだよ。一度、検査を受けてみたら」と言われ、慶応義塾大学病院の呼吸器内科に行ってみた。すると、咳のほうは以前にも言われた気管支ぜんそくのせいだったが、それとは別に両方の肺にかなり大きな腫瘍が見つかった。今のところ癌ではないようだけど、切除したほうがいいだろうとのこと。同じ呼吸器科でも内科から外科に回され、この5月13日に入院した。「日常」が「非日常」に変わった。下の写真は僕のベッドの枕元で、差額ベッド代のかからない4人部屋である。
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手術を前に、執刀の医師に会った。手術を勧めた医師とは別の人で、年の頃は40歳代の男性、手術台に横たわる僕のイラストを描きながら説明してくれた。

ところで、僕は両方の肺の腫瘍を取ってもらうつもりだったのだが、彼の説明はもっぱら右の肺のこと。いわく、右の背中に3か所、穴を開け、「胸腔鏡」を入れて腫瘍を取り除く、全身麻酔と局所麻酔の両方を使う、手術の時間は2時間ほど、臓器を傷つけるなどの合併症の可能性もゼロではない等々・・・一応、納得してから聞いてみた。「左の肺はやらないのですか」。

すると、彼は「あなたがいま60歳ぐらいなら、両方をやったほうがいいです。私もお勧めします。でも、あなたのお年を考えると・・・」と、口ごもる。

よくよく聞いてみると、右の肺の腫瘍は仮に今は安全でも、そのうちに悪さをする、つまり癌になる可能性がある。一方、左の肺の腫瘍は今のところ、単なる脂肪の塊のようで、当分は安全である。したがって、まず右の肺の腫瘍切除を優先しておいたほうがいい。医師にとっては、両方の肺を同時に手術しても、体力的にどうってことはないが、僕のような高齢の患者にとってはかなりの負担になるそうだ。

そして、僕が今60歳くらいなら、あと20年やそこらは生きるだろう。でも、80歳に近い僕があと20年生きる可能性は、それほどではない。つまり、無理して両方の肺を手術する必要は乏しいのではないか。「費用対効果」を考えてみなさい、というのである。僕も納得した。あと10年もしたら、左の肺の腫瘍も「まだまだ放っておいていいのではないですか。癌になる前にお迎えのほうが来るでしょう」と言われるかもしれない。

入院した翌々日の昼に手術が行われた。3時間ほどかかったようだが、全身麻酔・局所麻酔で行われた手術中のことは何も覚えていない。全身麻酔が覚める時のなんとも言えない嫌な気分、肺の一部を取ったのだから当然の苦しい呼吸、のどの渇き・・・それらに耐えて病室のベッドに戻った時は、病院のパンフレットによると、下の絵のような恰好をしていたらしい。
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点滴その他で、体のあちこちが管につながれている。尿道には「カテーテル」が入れられていて、いちいちおしっこ(病院では「お小水」と呼ぶ)に行く必要がない。おしっこは勝手に流れてくれてラクチンである。また、腰のあたりにつけられた「ドレーン」なるものは、体内から不要な血液や体液を排出しているらしい。どこかに移動しようとすれば、これらの「集団」を引きずって行かなければならないから、なかなかに面倒である。

手術した夜はぐっすりと眠った。気分もいい。この調子なら、すぐに退院してもいいぐらいの感じだった。ところが、翌日ベッドから体を起こすと、猛烈な吐き気が襲ってくる。食事はほとんど手が付けられない。やはり、背中に3か所も穴を開けるというのは、けっこう大きい手術だったんだなあと思う。

手術後、2日、3日経つと、食欲も戻ってきた。管も順番に外れていき、だんだん移動に自由を回復してきた。病院の中を散歩できるようになった

ところで、「非日常」と言えば、僕が入院前から一番心配していたのは、入院中アルコールが飲めないことだ。入院は少なくとも1週間と聞かされていたが、果たしてそんなに長い間、禁酒が続けられるだろうか。とりわけ、アルコールのない夕食なんて、想像しただけで身震いがする。これまでも何回か入院したことがあるが、せいぜい2~3日で、こんなに長いのは生まれて初めてである。

入院に際して、荷物検査はないだろうから、ウイスキーを1瓶、持ち込もうかとも考えた。だけど、もしばれたら、恥ずかしいので、思いとどまった。10年ほど前、目の手術で入院した時は、手術の前夜に外でビールを飲んできたのが女性の看護師にばれ、「お酒を飲まないために、前日から入院しているのではないのですか」と、お目玉をくらったことがある。

余談ながら、入院にあたっては、いろんな注意事項を書いた冊子などを渡されたが、そのどこにも「入院中は禁酒」とは書いていない。言うまでもないということだろうか。

結論から言うと今回、1週間余の「禁酒」もなんとか切り抜けた。第一、手術の後はしばらく、食欲もなかったから、アルコールどころではなかった。退院の日の21日、息子二人が律儀にも会社を休んで迎えに来てくれたので、さっそく一緒にビアホールに駆け付けた。生ビールの一番でっかいリッタージョッキを皮きりに、乾ききっていたのどを潤したのだが、いつもの調子で飲んでいたら、僕にしてはめずらしく酔っぱらってしまった。

付き合いにくくなった(!?)中国

1か月前、「日中の郵便局に翻弄された50日間」というのを書いた。日本から中国に食料品や薬をEMS(国際スピード郵便)で送ったところ、中身の価格が1,000元(16,000~17,000円)を超えていることや、食料品と薬が一緒に詰められていることを理由に、送り先には届けてもらえず、結局は50日をかけて僕の手元に戻ってきたという、馬鹿馬鹿しく、また悔しいお話だった。

中国にEMSその他で荷物を送ったことは何度もあるが、以前は(いつ頃とは、はっきり言えないのだが)こんなことはなかった。食料品と薬を一緒に詰めていても、ちゃんと届いていた。

ところで、国際郵便で小包を送る際には、早く届く代わりに料金も一番高いEMSのほかに、それほどではない「国際小包」というのもある。これには航空便、SAL便(エコノミー航空便)、船便の三つがあって、順番に送料が安くなっていく。

僕は以前からSAL便をよく利用していた。EMSよりもいくらかは日数がかかるが、大して違わない。去年のいつだったか、これで中国に食料品などを送ったところ、送り先の中国人から「郵便局から私の家までの送料を請求されました」との知らせが来た。日本円にして数千円になる金額だ。なんでも、僕が日本で払った送料は中国の郵便局までのもので、その先は配達料が要るというのだ。初めてのことだ。

日本の郵便局に話すと「えっ!!」と驚いていたが、仕方がない。向こうでは新しいカネ儲けの方法を思いついたのだろう。じゃあ……と、僕も考え、次は試しにSAL便より料金が少し高い航空便で送ってみたが、結果は同じだった。

ついでに言うと「日中の郵便局に翻弄された50日間」のあと、やはり中国に頭痛薬だけを少量、EMSで送ってみると、自宅まですんなりと届いた。配達料は請求されなかった。

ビザの面でも、中国の官憲は何かとうるさくなってきた。僕は中国の大学で6年間、ボランティアで教えたあと、7年間ほど桂林と南寧で日本語の塾をやっていたが、当時利用していたのは「180日間」の「観光ビザ」だった。期限が切れる頃には日本に帰ってきて、1~2か月後にまた中国に戻っていた。180日間の観光ビザは1万円ちょっとで手に入り、まことに好都合だった。

ただ、ちょっと不便なのは、いったん中国から外に出ると、ビザが失効してしまう。たとえば、お隣のベトナムに旅行しようとしても、ビザのことを考えれば、あきらめざるを得ない。そんなことを現地に住む日本人に話したら、「2年間のマルチビザもあるよ」と教えてくれた。料金は7万円かそこらして、やや高かったが、中国からの出入りは自由である。おかげでベトナム旅行もできた。

ところが、今はそんな長い期間の観光ビザはなくなってしまった。昨年末から今年にかけて中国に行ってきたが、わずか1か月の観光ビザしかもらえなかった。旅行代理店によると、観光ビザでやってきて悪事を働く外国人が増えたので、そうなったとのこと。観光ビザで塾を開いていた僕もその中に入るのか、と気にならないわけでもないが、少なくとも塾で儲かったことは絶対にない。ずっと持ち出しだった。

話は少し変わって、中国ではかなり前から「グーグル」が使えなかったが、日本から持ち込んだ僕のパソコンではそれが自由に使えていた。規制が緩やかだったのだろう。ところが、今回は使えなくなっていた。たまたま知り合った大学生にそう話すと「任せてください」と言う。かなり時間がかかったが、これまでと同じように使えるようになった。しかし、翌日には元の木阿弥だった。

中国からの帰りは上海から大阪行きのフェリー「蘇州号」に乗った。上海―関西を往復するフェリーはほかに「新鑑真」というのもあり、僕はこの二十年来、中国との行き来にはどちらかを利用することが多い。そして、僕の知る限り、乗務員はみんな中国人で、かつては日本語がよく通じたが、だんだん通じにくくなってきていた。

そういうことは覚悟していたが今回、蘇州号に乗って衝撃を受けた。もはや日本語が全く通じないみたいだ。しかし、食堂の入り口に掲げられたメニューなんかは日本語である。「ビーフカレー 500円」なぞと書いてある。

そこで、食堂に入って日本語で「ビーフカレー」と注文してみた。すると、カウンタ―の男の子と女の子がびっくりしたように顔を見合わせている。入り口にある日本語のメニューがなんで通じないんだ? ちょっとカッとして「咖喱饭」と中国語で言うと、二人はにっこりして「辛いのですか、辛くないのですか」と中国語で応じてきた。

日中の関係はこのところ悪くないそうだけど、僕のように「末端」から眺めていて、以上のようないろんな不便に遭遇していると、果たしてそうかなあと思ってしまう。中国側から見てもそうなのかもしれないが、末端の日本人にとっては、中国とはなんか付き合いづらくなってきている。

「昭和→平成」のころ、記者としてのほろ苦い思い出

この4月30日で「平成」が終わり、5月1日から「令和」の時代が始まった。いまは一介の素浪人の僕には、特には関係のない代替わりだけど、僕が新聞記者だった30年前の「昭和→平成」の時は、何がしかの関わりもあった。以下はそのころの僕の思い出である。
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昭和天皇が亡くなったのは昭和64(1989)年1月7日土曜日の午前6時33分、死因は十二指腸部の腺(せん)がんと発表された。87歳だった。当日の夕刊(上の写真)には「天皇陛下 崩御」「新元号『平成』」「明仁親王ご即位」などの大きな見出しが躍った。昭和天皇は前年9月19日に大量吐血して以来、111日間の闘病生活だった。

この闘病の間、新聞には宮内庁発表の「天皇陛下のご容体」が連日、事細かに報じられた。たとえば、亡くなる前日には「危険な状態続く 臓器に障害、酸素を補給」との見出しとともに、「体温35.1度 脈拍93 血圧68-30 呼吸数26」という「一覧表」が載っていた。「下血」がどうだったかということも、記事中にはよく出てきた。下血とは『岩波国語辞典』によると「種々の疾患による消化管内の出血が肛門から外に出ること」である。

当時、僕は朝日新聞の経済記者で、毎週日曜日の朝刊に載る経済の特集面の編集長を務めていた。「経済」といっても、普通の経済記事のように堅苦しくはなく、読んで面白いというのが趣旨で、「ウイークエンド経済」と称した5ページの紙面だった。そのころは「バブル経済」の真っ最中で、経済記事に対する需要も多かった。

昭和天皇が亡くなった土曜日には、翌日掲載のウイークエンド経済の紙面はほぼ出来上がっていた。だが、土曜日の夕刊だけではなく翌日の日曜日の朝刊も、紙面は「天皇陛下崩御」「明仁親王即位」関連の記事で埋め尽くされてしまった。おかげでウイークエンド経済なぞを載せる余裕はなくなり、休載となった。

ただし、日曜日の朝刊から弾き飛ばされたからといって、内容そのものがボツになったわけではない。1週間後にも使える記事がほとんどだ。特集面の性格からいって、掲載が1週間くらい遅れても、食べ物でいえば「賞味期限」が切れるわけではない。その点は助かるけど、「平成」に合わせた新しいトップ記事を用意しなければならない。

考えたのが「平成を占う」と題して、大企業50社の「課長さん50人に緊急アンケート」というものだった。相手を「課長」にしたのは、今後の日本経済を第一線で背負っていく人たちだからだ。そして、向こう数十年に日本がたどる道を尋ねたところ、「一層繁栄」が64パーセント、「現状維持」が24パーセント、「衰退」が12パーセントだった。見出しには「ニッポン黄金時代」という言葉が躍った。翌週のトップ記事の見出しにも「金満ニッポン」があった。

周知のように、バブル経済が崩壊し、長いトンネルに入るのはそれからわずか2年後のことである。僕は昭和→平成のころは48歳、自分ではベテランの経済記者のつもりだったが、そんなこと予想もしていなかった。大企業の課長さんたちも同じであるが、まさに「記者落第」と言える。能天気であった。

ただひとつ、イタリア在住の作家塩野七生さんがこのトップ記事につけた談話で「昨年12月に帰国した際、経済人たちが『日本は何もしなくても、このままでうまくいくだろう』と言っているのを聞いて、なんと楽観的な、これじゃ、日本の将来はダメだ、と思いました。日本の男たちは頼りにならない、と失望したのです」と言っていた。慧眼であった。僕もこれくらいの見識を持って、紙面をつくっていくべきだった。

いまこれらの記事を読み返すと、塩野さんの談話をのぞいて、見通しの甘さにまさに汗顔の至りだが、当時もうひとつ、ちょっと味噌をつけたことがあった。昭和天皇の「下血」に関することだった。

実は、ウイークエンド経済には「こちら編集部」と称して毎回、5人ほどの記者たちが取材・執筆で思ったことや身の回りのことなどを各人200字ほどで記す欄があった。記者の肉声が出てくるので、読者に好評だったようだ。昭和天皇が亡くなって1週間後、再開したこの欄に僕は次のように書いた。

「新聞から『下血』という言葉も消え、なぜか寂しい今日このごろです」

読者から「いただけない。シャレか、パロディーか、真意が不明」「不快」といった声がいくつか届いた。

僕は翌週のこの欄で「野球でいえば、コーナーぎりぎりに投げたつもりだったのですが……」と弁解しながら、「いえ、こんな訳の分からない言い訳をするようでは、コーナーを外れていました」と書き、白旗を上げた。ただ、昭和天皇の闘病中、世間では「歌舞音曲」を控えようとか、自粛ムードがはびこっていた。下血云々はそれに対する批判・皮肉のつもりだった――以上、いささかほろ苦い「昭和→平成」のころの思い出である。

日中の郵便局に翻弄された50日間

中国人に頼まれて、都内の郵便局から食料品や薬を中国あてにEMS(国際スピード郵便)で送った。段ボール箱に詰めた食料品など中身の値段は合わせて21,300円。郵送代は8,900円と、少し高かったが、わずか1週間ほどで届くはずである。このEMSには、荷物が今どこにあるかを、ネットで追跡できるサービスがある。いつ配達が完了したかも、あらかじめ頼んでおけばメールで知らせてくれる。

このサービスを使って追跡すると、都内の郵便局に荷物を預けた翌日の夜には早くも、受取人の住所に近い中国・広州の郵便局に着いている。ところが、その後5日経っても、6日経っても、荷物はじっとしていて、動かない。日本に比べて中国の郵便局は一般にのんびりしているが、ちょっとおかしい。そこで、受取人に連絡して、広州の郵便局に問い合わせてもらった。

すると、個人用の郵送品は中身の価格が合わせて1,000元(16,000~17,000円)を超えていると、受取人による税関手続きが必要になるとのこと。「21,300円」は確かにそれに当たるが、そんな面倒なことは日本の郵便局では何も聞かされなかった。ところが、中国の郵便局は「日本にはちゃんと知らせているのに、そんなことにお構いなく、荷物を送ってくる」と、逆に文句を言っているそうだ。

発送したのは小さな郵便局だったので、別の大きな郵便局に行って、事情を調べてみた。だが、EMSの窓口の職員も「1,000元以上・・・」は初耳だったらしく「少々お待ちください」と、奥に引っ込んだ。そして、戻ってきて言うには、「日本郵便株式会社(郵便局)のホームページを調べましたら、『中国あて国際郵便物の差し出しについて』という欄がありまして、確かにそのようになっています」。中国からは連絡してきているのだ。

そうならば、そうと、僕がEMSを出そうとした時点で教えてくれなくちゃ困るではないか。そう文句を言うと、「申し訳ありません」と頭を下げたが、謝られて済む問題でもない。高い郵送代を取っているくせに、不勉強である。

でも、今さら文句を言っても、始まらない。中国の受取人には郵送品の中身を詳しく知らせ、税関手続きをするように頼んだ。食料品はコーヒー、梅干し、即席ラーメン、マヨネーズ、かつお節など、薬は頭痛薬、軟膏などだ。中身自体には問題になるようなものは何も含まれていない。

これで一件落着と思ったが、受取人からは、広州の郵便局からさらに文句を言われたとの連絡が来た。それは食料品なら食料品だけ、薬なら薬だけ、あるいは衣類なら衣類だけを一つの箱に詰めるべきで、食料品と薬を一緒に詰めては駄目だというのだ。なんとも納得のいかない理由だが、結局、荷物は僕に送り返されることになってしまった。悔しいが、どうすることもできない。

じゃあ、いつ、広州の郵便局を出るのかと、ネットの追跡サービスで調べてみた。すると、これも5日経っても、6日経っても、動きがない。また、受取人に調べてもらったら、郵便局は「2週間ほどしてから、日本に送り返す」と言っているとのこと。理由は分からない。嫌がらせなのだろうか。

イライラしながら、ネットで追跡だけはしていると、荷物はなんと計23日間、広州の郵便局に滞在した後、「発送」という表示が出た。さあ、やっとあと数日で戻ってくるぞと思ったが、今度もそうは問屋が卸さなかった。

やはり、5日、6日と経っても、発送した後、どこに荷物があるのかの表示がネットに出てこない。そこで、東京・大手町の日本郵便の本社内にある郵便局に行ってみた。ここなら、ほかの郵便局よりも少しはしっかりしているはずと思ったからだ。

すると、EMSの窓口の職員は「いやあ、中国は広いですから、配達に時間がかかっているのでしょう」と、間の抜けたことを言う。そこで、これまでの事情を話して、さらに調べさせたら、「いま船便で日本に向かっているようです」とのこと。EMS、つまり航空便で出したものが、のんびりと船便で戻ってくるなんて・・・結局、24日間をかけて日本の郵便局に着いた。
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その数日後、段ボール箱は僕の家に配達された(上の写真)。都内の郵便局に預けてから、なんと50日が過ぎている。箱には返送の理由を記す、「東京国際郵便局」発行の小さな紙片が貼られている。そして、いくつかの理由のなかで「名あて国で保管していましたが、受取人様からの請求がなく、保管期間が過ぎました」のところにチェックがしてある。完全な嘘である。受取人は何とかして届けてもらいたくて、いろいろと努力したが、広州の郵便局は相手にしてくれなかったと泣いていたのだ。

返送理由を記した、東京国際郵便局からの紙片にはもう一つ、「その他」というのにもチェックがあった。しかし、「その他」の中身については、何も書いていない。これでは全く意味不明である。完全な手抜きの仕事である。

少ししてからパソコンをのぞくと、日本郵便からの「○月○日○時○分、配達を完了いたしました」という丁重なメールが届いていた。あのねぇ、それはないだろ・・・とは思ったが、これ以上、文句を言う気力は湧いてこなかった。

酒類「持ち込み自由」の古き良き伝統

久しぶりに中国に行くに際して、せこい話ながら、気になることがひとつあった。レストランで食事する際、酒類、具体的に言えば、中国ではもっとも一般的なアルコールである白酒(中国の焼酎)を瓶ごと持ち込んでも、依然OKだろうかということだった。

というのは、この地では、ビールを持ち込むような客はさすがに見かけなかったが、白酒はもともと持ち込み自由だった。文句を言われたことがなかった。ところが、いつごろからか「本店謝絶自帯酒水」と掲示する店が増えてきた。「当店はアルコールなど飲料の持ち込みをお断りします」というのである。店からすれば当然のことだろうが、僕なんかは「中国もせこくなったねえ」と、ぼやいていたものだ。

この「本店謝絶自帯酒水」が今や、中国のどこのレストランでも徹底しているのではないだろうか。それが心配だったのだ。
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今回の旅行では、海に面した広東省の珠海を初めて訪れ、なかなかに風情のあるレストランに入った。仲間は教え子の女性ふたり。ビールで乾杯した後、あらかじめスーパーで買ってきたポケット瓶の白酒「紅星二鍋頭酒」(写真上)を僕ひとりでちびちびとやっていた。店員にはできるだけ見られないように、気をつけた。100ミリリットル入りのこの瓶はスーパーで7元ほど(1元=16~17円)。もちろん、もっと大きな500ミリリットル瓶(写真下)などもある。
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ちなみに、この紅星二鍋頭酒というのは、北京の安い地酒で、アルコール度は52度、53度か56度。なんとなく僕の口に合い、以前から親しんできた。

僕らが食事していたのは、大きなテーブルの一角だったが、ふと気づくと、年配の夫婦らしき男女が対面に座っている。そして、グラスを2個、注文し、大きな竹の筒から白酒のようなものを堂々と注ぎ始めた。僕のように、こせこせとはしていない。その竹の筒にはどこか見覚えがあったので、尋ねてみた。「それ、なんでしたっけ?」「ああ、桂林の三花酒だよ。飲むかい?」。

三花酒ならよく知っている。桂林の地酒で、10年ほど前、ここで暮らしていた頃には、よく飲んだ。それも、クコをしばらく漬けておき、酒の味を少しマイルドにしてから、ぺットボトルに入れて、あちこちの店に持ち込んだものだ。そして、この夫婦の行いから、珠海のレストランでは白酒の持ち込みはまだ自由らしいということが分かった。でも、今回の旅行で本拠にしている桂林ではどうだろうか?

僕は以前、桂林の大学で1年間だけだったが、ボランティアで日本語の教師をしたことがある。当時、親しくしていた同僚の中国人の先生に、桂林に着いてから電話してみると、「ああ、懐かしい。10年ぶりじゃないですか。よかったら、今晩、食事しませんか」とのこと。場所まで指定してきた。食事代は僕が払うことを条件にOKした。

指定されたレストランに着くと、彼はすでに来ていて、テーブルの上には白酒の大きな瓶が置いてある。「あれ、これは持ち込みかな、それとも?」と、僕は気になったが、すぐに酒盛りが始まった。

勘定は、僕が強引に彼を制して支払ったが、あとで明細を眺めてみると、白酒の代金は入っていない。ということは、あれは彼が持ち込んだものなのだ。その後、桂林ではあちこちのレストランに入ったが、今回は「本店謝絶自帯酒水」という掲示は、ついぞ見かけなかった。

酒類の持ち込み自由は、まさに中国の「古き良き伝統」である。店には置いていない好みの酒を飲むこともできる。店側の「謝絶」に客側が抵抗して、この伝統を守り続けてくれているようだ。僕も及ばずながら、協力していきたいと思っている。

世界一の自動車市場を彩る小さな「車」たち

久しぶりの桂林で、以前はなかった横断歩道橋にお目にかかって少しびっくりしたという話を前回に書いたが、もうひとつ、興味を引きつけられたものがある。それは、例えば下の写真にあるような小さな電動の「乗用車」たちだ。日本ではまず見かけない型の車である。
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この3台はいずれも、宿近くの住宅団地の一角に止めてあった。うち2台が4輪車、1台が3輪車。なかなかに個性的な風貌である。日本の「軽」の乗用車よりもひと回りかふた回り小柄だが、中をのぞいてみると、3人や4人は乗れそうだ。モータリゼーション(車の大衆化)の進んだ中国だけど、普通の乗用車にはまだちょっと手が届かない人たちが買っているのだろうか。
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街中の幹線道路に面して、こうした車の販売店が軒を連ねていた。上と下の写真がそこで見かけた車たちである。
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店の人に話を聞いてみた。新品の値段は3輪車で8千~9千元(1元=16~17円)、4輪車で1万2千~3千元。日本円にすると、3輪車が14万円ほど、4輪車が20万円ちょっとだ。1回充電したら、70キロは走れますというのが店の宣伝だった。

中古車もあった。下の写真がそうで、エンブレムはトヨタの高級車レクサスの「L」とそっくりだ。売値は3800元。6万円ほどで、「老年代歩車」とある。「老人の足代わり」といったところだろうか。
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ところで、写真にある乗り物をここまで「乗用車」とか「車」とか呼んできたが、正確な言い方ではなかった。というのは、これらは運転免許が要らないのである。中国には電動バイク(スクーターのようなもの)が多いが、運転免許なしで乗れる。ここまで書いてきた乗り物も電動バイク、もっと言えば、自転車と同じ部類に入るので、運転免許は不要。したがって、ナンバープレートもない。「車もどき」とでも呼んだら、ぴったりなのかもしれない。

運転免許なしで事故は大丈夫? といった心配はあるけれど、それはそれとして、税金なんかは払う必要がない。車検も関係がない。何かと利点がある。ただ「車」ではないのだから、街中ではバスなどが通る「車道」は走れない。自転車と同じように、車道と歩道の間にある「側道」(と呼ぶのだろうか)を走らされている。いくらかの「差別」は我慢しなければならない。

ここまで書いてきた乗り物と同じように、小さくて可愛いのだが、運転免許が必要なのが下の写真の車である。桂林が属する広西チワン族自治区にある自動車メーカーの製品で、今これがこの地の若い女性の間で大人気だそうだ。
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とりわけ、幼子を横に乗せて走るのが「かっこいい」と、若いお母さんの憧れの的とか。3歳の女の子がいる桂林在住の教え子の女性も、これが欲しくてたまらない。夫も買ってやると言っている。ただ、運転免許がないので、これに乗るためだけに、教習所に通い始めたそうだ。「女性専用車」と呼んでもいいのかもしれない。

中国は世界一の自動車市場である。それも、日本だと、走っているのはほとんどが国産車だが、中国ではまさにあらゆる国の車が走っている。

中国独自のブランドに加えて、日本の乗用車だと、トヨタニッサン、ホンダ、スズキ、マツダダイハツ、ミツビシ、スバルと、全メーカーのものがそろっている。ドイツ、アメリカ、フランス、イギリス、イタリア、スウェーデン、韓国・・・の車も頻繁に見かける。なかでも、日本が二の足を踏んでいるのを横目に、いち早く中国に進出したドイツは日本を凌駕し、道路はフォルクスワーゲンだらけである。

そんな中国の自動車市場に、小柄ながら個性的な「車もどき」や「女性専用車」が彩りを添えている。