続・コロナ禍2年目 「官庁用語にイライラ」

この1月7日、政府は新型コロナ感染症の拡大を受けて、2度目の緊急事態宣言を首都圏などに「発出」した。「発令」ならまだ分かるが、「発出」とは聞き慣れない言葉である。昨年、最初の緊急事態宣言を出した時も同じ「発出」だった。字面から見て、意味は想像できるが、ふだん僕が手元で使っている「岩波国語辞典」(第7版)にも載っていない言葉である。

翌8日の新聞を見ると、毎日、読売、日本経済、産経、東京の各紙は「発出」を使わず、緊急事態宣言を「発令」あるいは「再発令」としていた。朝日新聞に至っては「緊急事態宣言を出した」あるいは「緊急事態を宣言した」と、実に簡単である。また、東京都のホームページを見ても、「今、緊急事態宣言が発令されています」として、都民に協力を呼び掛けている。どこもかしこも、政府の「発出」を無視している。せめて、最初から「発令」を使えば、政府もここまで恥をかかなくて済んだのにと思ってしまう。

政府の気持ちを忖度すると、「発令」には「命令」の意味もある。一方で、緊急事態宣言は「何々してください」などと、国民に「要望」「お願い」している。そこで、命令の感じを消したかったのかもしれない。しかし、「緊急事態宣言を発出する」とは、なんとも大げさである。実に重々しい。政府が何か立派なことをやっているように聞こえる。そっちのほうが政府が望んだことかもしれない。そう勘ぐってしまう。身びいきになるけど、朝日新聞のように「緊急事態宣言を出す」「緊急事態を宣言する」と言ってくれれば、国民のほうももっと協力する気持ちになったかもしれない。

これに限らず、今回のコロナ禍のもとでは、どうもしっくりしない言葉が多すぎる。その一つが「濃厚接触者」である。例えば、「男性Aと女性Bが濃厚接触者だった」と報じられると、僕がスケベなのかもしれないが、何かあらぬことを想像してしまう。

しかし、言うまでもなく、本当はそうではない。「濃厚接触者」とは、例えば「陽性の人と1メートルほどの距離で、マスクなどはしないで、15分以上の接触があった人」である。あるいは、陽性の人と同居していたり、航空機や車内で長い時間、一緒だったりした人である。英語では「close contact 」と言うそうだ。今や、僕のような想像をする人はいないだろうけど、もう少しまともな日本語にできないだろうか。いい案はないのだけど、例えば「近距離接触者」「近隣滞在者」などはどうだろうか。自信はないけど、「濃厚接触者」よりはいいと思う。

これに似た言葉で「ソーシャルディスタンス」、最近では「フィジカルディスタンス」なんていうのも、なんとかしてほしい。「濃厚接触者」に比べれば、日本語にするのはずっと簡単だ。「対人距離」とか「他人との距離」でもいいし、「車間距離」にならって「人間距離」という新語を作ってもいい。ここでは「人間」は「じんかん」と読んでもらう。

「不要不急の外出自粛」というのも気に食わない。先日、朝日新聞の声欄に「不要不急の具体例がよく分からない。具体例を示して、国民に判断材料を与えるべきではないか」との投書が載っていた。この人は「例えば、1人での外食、1人での散歩、日中すいている電車での1人の外出は控えなくてもよい、などの具体例を示してほしい」というのである。しばらくすると、別の人の投書が載った。「不要不急には個人差があります」「政府の『具体例』がいつの間にか『規制』になり、従わない者には罰則なんてことになるのはご免です。自分の頭で考えることが大事ではないでしょうか」

どちらのご意見ももっともである。だが、僕がけしからんと思うのは、政府は「不要不急の外出自粛」と唱えるだけで、あとは国民の皆さん、ご勝手に、といった感じであることだ。もちろん、「食料品を買いにスーパーに行くのはいい」とか、「通院はOK」などの例示は出ているけれども、何がいいのか、あるいはよくないのか、一緒に考えようといった姿勢が感じられない。あなたの外出のせいで、感染症が拡大したら自業自得です、自分でよく考えなさい、政府は知りませんよ、といった「上から目線」を感じてしまう。もっと穏やかで誠意のこもった言い方があるはずである。

あれこれ考えていると、イライラするのだけど、今回の一連のことはまあ大目に見るとしよう。でも、このような感染症の流行はいずれまたやってくるだろう。その時に備えて、どう訴えれば、国民に政府の気持ちが伝わり、協力が進むのか、政府にはもう少し言葉の勉強をしておいてほしいのである。

コロナ禍2年目の「床屋談義」

新型コロナウイルス感染症が中国・武漢から世界中に広まって1年が経った。世界の感染者の累計はすでに1億人を超え、人類の78人に1人が感染している。国内でも1月末現在、感染者数累計は40万人に迫り、国民のほぼ300人に1人が感染したことになる。

僕が住んでいる埼玉県川越市でも、これまでに同じくほぼ300人に1人が感染している。我が家のある団地の人口は4500人ほどだから、この比率を当てはめれば、住民のうち15人が該当者である。しかも、65歳以上の高齢者が半分に近い団地である。亡くなった方もいらっしゃるかもしれない。新聞をめくっていると、散歩の途中でときどき前を通る病院では20人近いクラスター(感染者集団)が発生している。昔、酔っぱらって帰宅する途中、家の近くで車にはねられ、救急車で運ばれた病院である。いま同じことが起きれば、救急搬送を拒否されることだろう。

いやはや、感染症もますます身近になってきたなあ。そう思いながら、我が家に近い行きつけの散髪屋に入った。いわゆる「1000円カット」の店で、40歳がらみのお兄さんが一人で切り盛りして、なかなかに賑わっている。話は自然にコロナ禍のことになった。

我が家の近くを走る鉄道の沿線は大学が多いのだが、彼によると、某大学の野球部でもクラスターが発生している。「エッ、そんなこと、新聞の埼玉版にも載ってないぞ。どうして知っているんだい?」と尋ねると、「その野球部にいる学生が散髪に来て、教えてくれました。本人は陰性なんですが、彼によると、陽性の学生がコンビニで買い物をしている。そんなことしていいの? そう聞くと、だって、誰も食事の世話をしてくれないから、仕方がないんだ、と答えたそうです」。症状が軽いか、あるいは無症状なので、最近、流行?の「自宅療養」をさせられているのだろうか。そうなら、気の毒なことだけど、他人にうつす恐れも十分にある。

話はワクチン接種のことに移った。散髪屋のお兄さんは「医療従事者の次は優先的に高齢者に接種すると言っていますが、そうではなくて、私はこうした若者を優先すべきだと思うんです。日本の将来のことを考えればね……」。老い先の短い高齢者を優先するのはおかしい、無駄遣いだ、とまでは言わなかったけど、彼の口振りや手元は熱を帯びてきた。……おいおい、注意してくれよ、ハサミには。実は僕も彼の説に賛成である。

菅義偉という首相は優しい人で、まず高齢者(本人もそうだけど)を大事にしたいのだろうけど、高齢者優先にはもう一つの狙いが隠されている気がする。それは「副反応」のことだ。世界的にワクチン接種は始まったばかりで、副反応がどうであるかは、まだよく分かっていない。そこで、高齢者に優しいふりをしながら、それを試してみる。いわば実験台である。もし、深刻な副反応がいくつか出ても、そんなに非難を受けることはないだろう。これからのワクチン接種にとって大いに参考になる。「一石二鳥」ではないか。

まあ、これは冗談半分としても、若者、そして働き盛りの人たちに優先して接種すべきというのは、真面目で筋が通った話である。緊急事態宣言下、新聞やテレビで朝の出勤時の光景を見ると、テレワークなどでいくらか減ってはいるのだろうけど、どこもかしこもが人々でごった返している。まさに「密」いや「超密」である。感染が広がらないほうがおかしい。最近、家庭内感染が増えているそうだが、おそらくそうした人たちが家庭にウイルスを持ち込んでいるのだろう。

一方、僕のような高齢者が「密」や「超密」を避けるのはそう難しいことではない。生活のためには仕方がないという方もいらっしゃるだろうが、人混みへの外出を自粛すれば済むことである。従って、感染の危険性も小さい。つまり、若者や働き盛りの人たちに優先して接種すれば、この人たちが感染する割合が下がり、家庭へのウイルスの持ち込みも減る。ひいては、感染拡大防止にはより効果的なのではないだろうか。

ところで、散髪屋の彼は西日本の離島の出身である。話が一段落してから聞いた。「正月、島に帰ってきたの?」。「帰っていません。島はそれどころではなかったんですよ」。彼によると、帰省客を乗せて島に向かう船の中で、クラスターが発生した。それは帰省客がもたらしたものだったとか。おかげで、島はそれこそ上へ下への大騒ぎ。「帰省客がいた家はその後、『村八分』になっているようです」

実に久しぶりに、村八分なんていう言葉を聞いた。新型コロナウイルス感染症のおかげで世の中は随分とげとげしくなってきているなあ。みんなが「被害者」のはずなのに……。散髪屋の彼は続けた。「自粛警察じゃないけど、ここにも怒鳴り込んでくる人がいましてね。70歳くらいのおじいさんでした。お前たちがこうやって営業を続けているから、病気がはやるんだって言うんですよ。お客さんの手前、毅然としたところを見せないわけにはいかないから、あなたこそ、不要不急の外出を控えたらどうですかと言って、お引き取り願いましたがね」

この「1000円カット」の店では、散髪は15分足らずで終わってしまう。もう少し「床屋談義」を続けたかったが、そうはいかない。ただ、お兄さんのワクチン接種についての主張に賛同したせいもあるのだろう、「お客さんは考え方が柔軟で、尊敬しています」というお世辞に送られて、店を出たことだった。

見入ってしまった「年賀状と喪中はがき」

僕に年賀状をくれる人は、孫や甥っ子、姪っ子を除くと、60歳代、70歳代から90歳くらいまでの年配者だ。仏教の「生老病死」でいうと「老」や「病」の渦中にいる人たちだろう。この正月、久しぶりに日本にいて、そういう方たちからの年賀状を読んだ。年末には喪中はがきも読んだ。決まり文句だけのも多かったが、しんみりとさせられ、見入ってしまったものも結構あった。

その筆頭は「健脚」で鳴らしてきた90歳の「歩き仲間」からのものだった。81歳の時には「四国遍路」で1200キロを歩いている。これまでに地球を2周分、3周分は歩いているだろう。「鉄人」のような人である。それなのに……以下、引用する。

最近年齢的ボケが進みました。認知症とはあえて言いません。
度忘れが多くなりました。
耳が遠くなりました。
動作も鈍くなりました。
階段の昇降が困難になりました。
歩くのだけはと思っていましたが、1キロも歩けません。速度は幼稚園児並みです。たった一つ、背筋が伸びていると褒められます。ウォーキングの賜物でしょうか?
何もかも衰えましたが、持病だけが勝手に進んでいます。

そして「こんな私ですが、今年もよろしくお願いします」と結んでいる。失礼ながら、思わず噴き出してしまった。己を達観し、ユーモアに満ちている。認知症であるはずがない。「名文」である。年賀状はすでに出していたが、「寒中見舞い」と称して返事まで書いてしまった。ただ、あんな鉄人でもこうなるのかと思うと、感無量になった。

次は、新聞社時代の後輩からの年賀状だ――昨年、新しい舌癌が左舌に見つかり、手術をしないで、何とか年を越しました。食べるのとしゃべるのとが不自由になりました。歳を取ると足腰がしびれたり、痛くなったり大変ですが、何とか頑張ってます。

彼が「癌」に苦しんでいることは知っていた。そして、年賀状は続く――ゴルフは20回ほどしましたが、115前後です。健康維持のためにできるだけ多くプレーしてます。

ゴルフをやらない方(僕もそうだけど)には分かりにくいが、「115」というスコアは初心者レベルだろう。いったい君は何十年、ゴルフをやってるんだい? そう突っ込みたくもなるが、癌と闘いながらである。深刻な話の後にさらりとゴルフのスコアが出てくる。これもユーモアが感じられる。

年賀状にはほかにも「昨秋、糖尿病の悪化と肺炎で1カ月入院しました。積年の不養生が一気に出た感じです」(彼も新聞社時代の後輩。新型コロナウイルス感染症にやられたら、怖いなあ)、「目を悪くしました。ブドウ膜炎です」(難病である。この人はかつて飲み屋の女将だった)などと、「老」と「病」が結構あったが、それらに続く「死」と言えば「喪中はがき」である。

共通の飲み屋を介して付き合いがあり、1年前にも年賀状をくれていた知人の奥さんから年末、喪中はがきが来た。知人は現役時代、広告代理店に勤めていた。取材に行ったこともある。えっと驚いて、去年の年賀状を探し出した。そこには海外での鉄道旅行の際に写したらしい写真がいくつかあり、その下には――すっかり思い出ばかり。思い出から抜け出したいのですが、今一歩努力が足りないのですね。頑張ります。

彼は鉄道旅行が好きで、近年は病魔に……ということは知っていた。そうか、思い出だけでは嫌だ、そこから抜け出して、もう一度、元気に現実の鉄道旅行がしたかったんだ。でも、「思い出から抜け出したい」なんて、さすがは元広告マン、うまいことを言うなあ。1年前はなんとも思わなかった年賀状に、あらためて見入ってしまった。

僕は今年の年賀状には「思い切って脊柱管狭窄症の手術をしたらうまくいった。今は元気に歩き回っている」といったことを書いた。一応、まだまだ元気いっぱいだけど、1年後、2年後……僕の年賀状はどう変わっていくのかなあ? そんなことも考えさせられたこの正月だった。

「謹賀新年」のあとは僕の「強迫性障害」について

あけまして おめでとう ございます
このところ毎年、中国か台湾のどこかから新年のご挨拶をしていましたが、今年はとてもそういうわけにはいきません。埼玉県の自宅に蟄居しての「謹賀新年」です。今年も駄文にお付き合いくださればうれしいです。

前回のこのコラムで「そうだ 僕も『どもり』だったんだ」というのを書いた。朝日新聞で吃音(きつおん)つまり「どもり」の記事を読んだのがきっかけだった。年末、同じ朝日新聞の電子版を読んでいたら、「強迫性障害」の50歳代の男性記者がその苦しみを9回にわたって連載していた。ここでも僕は思った。「そうだ 僕も『強迫性障害』だったんだ」。そこで、今回はこれについて書きたい。

強迫性障害にはいろんな症状があり、それが出たり消えたりするのだが、この記者は時には何時間も風呂場や洗面所で手を洗い続けることがあった。コロナ禍のずっと前からのことで、手が汚れているのではないか、と気になって仕方がなかったのだ。

記事によると、強迫性障害とは「強迫観念から強迫行為を繰り返す精神疾患」とある。汚れが気になって長時間手洗いをするのが多いそうだが、ほかには、物が左右対称に置かれていないと気が済まない「対称性へのこだわり」というのがある。有名なプロサッカー選手だった英国のデビッド・ベッカム氏もこれで、例えば、冷蔵庫内の飲み物は左右対称に置かれていないと我慢できないそうだ。小学校から中学校にかけての頃、僕にも似た症状があった。

ただ、僕の場合は左右対称へのこだわりはなく、勉強机の上の参考書類がいつも同じ順番で並んでいないと、気が落ち着かなかった。朝、登校前にはそれを2度、3度と確認していた。そして、頭の中では「これは馬鹿馬鹿しいことだ」と思っていた。こんなのがいつまで続いたのか、はっきりとは覚えていないが、いつの間にか消えてしまった。参考書類の順番はまったく気にならなくなった。そして、いま僕が自宅で使っている机の周辺は、本棚もどこも乱雑を極めている。

さっきの記事によると、ガスの元栓などが気になって何度も確認するのも強迫性障害のひとつだ。これにも僕は大いに思い当たる。いま現在がそうで、外出する時、台所や風呂場、ストーブなどのガス器具や水道の栓がちゃんとしまっているか、トイレの水が流れっぱなしになっていないか、戸締りは……といったことが気になる。それらを確認して家の外に出てからも、例えば、「ストーブの栓はちゃんと見たかな。確かめたはずだけど、どうだったかな」なぞと気になりだし、また家の中に戻ることもある。これも「馬鹿馬鹿しいな」とは思うのだけど、再確認して安心したほうが気持ちがいい。

ただ、朝日新聞に記事を書いていた記者に比べると、僕の場合は症状がずっと軽い。そして、それに苦しめられてきたというより、これまでプラスに働いていたのではないかと思っている。というのは、僕は新聞社時代、数字を扱うことが多い経済記者を長くやっていたが、とにかく神経質に確認、確認という性格が幸いしてか、記事の訂正を出したことがほぼない。正確にいうと、20歳代の時、1回だけ訂正を出した。ある会社の株式の配当金を実際より少なく書いてしまったのだ。

その時のことを今でもよく覚えている。記事を書いた日、自宅に戻ってから、風呂の中でその数字が気になりだした。ふとしたら、間違ったのではないだろうか? この時間なら、まだ直せる。ただ、今なら、パソコンかスマホで検索すれば、その会社の配当金はすぐに分かるが、当時はそんな便利なものがなかった。東洋経済新報社が出している『会社四季報』を繰るしかない。だが、自宅にはそれがなく、経済部のデスクに電話して、手元の四季報で調べてもらうしかない。

ただ当時、僕はまだ新米の経済記者だから、大先輩のデスクにそんな手間を煩わせるのはためらわれた。一方で、僕は自分の原稿に間違いがないか、いつも神経質に点検している。その僕が配当金を間違えるなんて、そんなケアレスミスを犯すはずがない。そう自分を納得させて、その夜は寝てしまった。ところが、やはりというか翌朝、当の会社から新聞社に間違いを指摘する電話があり、後にも先にも初めての訂正を出すことになった。

話は変わるが、新型コロナウイルス感染症の拡大が止まらない。そんななかで政府は5人以上の飲食に注意を呼び掛けている。それなのに、菅義偉首相はステーキ店で8人で会食していた。海上自衛隊トップの幕僚長らは14人で送別会をし、うち4人が陽性だった。埼玉県の自民党県議団は約30人で定例会閉会後の打ち上げをやっていた。

それぞれ言い分はあるようだが、太っ腹というか、能天気というか……新型コロナウイルス感染症を恐れて、手洗いその他に励んでいる強迫性障害の僕から見たら、とても信じられない。社会の中枢にいる方たちには、もっと神経質になってほしい。ある程度の強迫性障害になってもらわないと、コロナ禍はなかなか収束しないのではないだろうか。

そうだ 僕も「どもり」だったんだ

ジョー・バイデン次期米大統領は子供の頃、「吃音(きつおん)」に苦しんだそうだ。そんなニュースがきっかけになってか、吃音に悩んでいる人、かつて悩んだ人の話を最近、新聞などで時に見かけるように思う。先日の朝日新聞には、以前吃音に悩んだ33歳の女性が、その体験を『きつおんガール』という漫画にして出版した話が載っていた。この記事によると、吃音はおよそ20人に1人が幼少期に発症し、7~8割は成長するにつれて症状がなくなるそうだ。

ぼんやりとそんな記事を読んでいて、ふと気づいた。そうだ、僕だってそうだったし、今も完全には治っていない。「吃音」なんて、難しい言葉はどうも発音しにくい。要するに「どもり」のことだ。どもりという言葉は「差別的」というので、今は使われなくなっているらしい。だけど、僕は「どもり」なら、すんなりと発音できるが、「吃音」は言いにくい。どもってしまいそうだ。で、以下はどもりという差別表現でお許し願いたい。

どもりは幼少期に発症するとのことだが、僕もどもりになったのは小学校6年生の時だ。それを語るには、いささか「自慢話」もしなければならない。僕は当時、奈良市の小学校に通っていた。クラスでは成績抜群(?)で、級長を務めていた。担任の男の先生は僕らより12歳上、いい先生だったが、午後にも授業があるのに、なぜかいなくなることがあった。そんな時は僕に「先生は用事があるから、午後の授業は君がやっといてくれ」と言って消えていった。「はい、分かりました」と僕。先生に代わって、教壇に立った。

とはいうものの、準備もしないで、いったいどんな授業をやったのやら。それからすでに70年近くがたち、もう記憶も薄れている。ただ、ひとつ鮮明に覚えているのは、僕がどもり始めた瞬間だ。教壇の僕に級友から質問があった。それは僕が予想もしていなかった質問だった。内容は忘れてしまったが、僕はそれに答えられない。突然、僕はどもり出した。なんとか切り抜けはしたのだろうが、「先生」である僕のプライドが傷つけられた。それがどもった原因だったと思う。級友たちは不思議に感じたことだろう。

その後、僕のどもりは中学校、高校と続いたが、程度はそれほどではなかった。だけど、ある言葉が発音できなくて、困ったことは時々あった。例えば、「プロ」と言うのが難しい。従って「プロ野球」とはなかなか言いにくい。そんな時、別の言葉に言い換えて切り抜けた。プロ野球の代わりなら「職業野球」である。今では、職業野球は聞きなれない言葉だろうけど、かつてはそうではなかった。現に、プロ野球という言葉が普及する前は職業野球と呼んでいた。後日、新聞記者になった僕だから、語彙が豊か(?)で、言い換えにそれほど苦労しなかったのかもしれない。

学校を出て、「朝日新聞社」に就職し、九州の「佐賀支局」が最初の赴任地だった。ところが、いつものことではないのだけど、「朝日」という発音がどうも苦手だ。とりわけ、まず最初に「朝日」と言うのが苦しい。つまり、初対面の人を取材する時は、「朝日新聞の何々です」と名乗らなければならないのだが、これが時にはすんなりと出てこなくなる。でも、相手に直接会った時はまだいい。名刺を渡して「こういう者です」とごまかすこともできる。

だけど、電話で取材する時は、そういう手は使えない。で、ある時、思いついたのは「朝日新聞」を最初に言わずに、「佐賀支局の朝日新聞……」という言い方だ。「佐賀支局」は僕には発音しやすくて全くどもらない。これが最初に出てくると、次の「朝日新聞」もどもらないで、すんなりと言える。

まあ、こんな方法でしのいできたのだけど、ただ、どもりに悩んだとか、苦しんだとかいった記憶はほとんどない。「素直に発音できなくて、少し困ったなあ」といった程度だ。今もたまにどもりそうになったら、適当にごまかしてしまう。持ち前のずうずうしさが、どもりの「傷」を軽くしてくれたのだろうか。

最近では、新型コロナウイルス感染症のニュースに出てくる外来語の「クラスター」がやや苦手で、どもり出すことがたまにある。プロ野球の「プロ」と似て「クラ」が言いにくい。ただ、幸いなことに、新聞記事の「クラスター」の後にはよく(感染者集団)という日本語の表記がついている。僕もクラスターとは言わず、感染者集団と言えば済んでしまう。忌まわしいコロナ禍だけど、「気配り」も少しはあるようだ。

憂鬱なこの年末年始

僕はこの20年ほど、年末と正月はもっぱら中国か台湾で過ごしてきた。中国北方のハルビンと南方の桂林の大学で教えていた時は、物理的にも年末年始に日本に戻るのは難しかった。正月を旧暦で祝う中国では、新暦の年末年始は学期の真っ最中だった。期末試験もある。その後、大学を辞めて、桂林とさらに南方の南寧で日本語の塾をやっていた時も、事情は同じだった。中国人が新年を祝う春節旧正月)になってから、やっと日本に戻ってきていた。

しかし、これにはいくつか「利点」があった。そのひとつは家人から喜ばれたことだ。「亭主元気で留守がいい」ではないけれど、僕がいなければ、正月の準備を特にする必要もない。何かと気ぜわしい年末も、足手まといがいないと、家人も気が楽である。

そんなこともあって、日本語塾をいったんやめて、日本にいることが多くなった近年も、12月から1月にかけては中国か台湾に出かけている。1年前は台湾の高雄と台北で過ごし、新型コロナウイルス感染症が騒ぎになる直前に戻ってきた。台湾の総統選挙もじっくりと見てきた。2年前は、かつて5年ばかり住んだ桂林で過ごし、3年前はやはり台湾に行っていた。

この12月にも当然、出かけるつもりだった。日本のコロナ禍も秋ごろには収束するだろう。一方、中国や台湾はそれをほぼ抑え込んできている。行き来にそれ程の支障はないはずだ。今から思えば、あまりにも楽観的だったが、日本の緊急事態宣言が解除された頃にはそんな気がしていた。

ついては、今年は行き先を上海にするかなあ。上海には、大学や塾での教え子も何人か働いている。親切にしてくれる知人もいる。早くからその腹積もりをしていた。行き帰りは飛行機ではなく、久しぶりに大阪・神戸港からのフェリーに乗ろう。片道2泊3日、海を眺める、そして、酒を飲む。それ以外は何もせず、2等の広い船室に転がっている。夜は満天の星。まさに至福の時である。そのフェリーには「新鑑真」と「蘇州号」があって、それぞれ週に1回、日中を往復している。僕はどちらにも何度か乗ったことがあり、ともに貨客船である。

ところが、夏ごろ、フェリーの年末年始のスケジュールを念のために調べてみたら、新鑑真はこの1月末から旅客輸送をやめ、貨物輸送だけになっていた。新型コロナウイルスの感染防止を理由にしている。ただ、蘇州号のほうはこれまで通りのようで、安心していたら、これも9月末に旅客輸送をやめてしまった。

仕方なくフェリーは諦めるとしても、問題はこのところの新型コロナウイルス感染症の急拡大である。中国や台湾が日本人観光客にビザを出してくれるわけもない。しかし、あきらめの悪い僕は何か「抜け道」があるかもしれないと思い、何度も中国行きのビザを頼んだことがある小さな旅行代理店に電話してみた。出てきた社長は「中国政府の招聘状がなければ無理ですねえ」。中国に入れてくれさえすれば、2週間のホテル隔離もOKなのになあ。得難い体験にもなる。そうぼやいてみたが、どうしようもない。ネットで台湾政府の方針も見てみたが、「観光」の項目には「×」があるだけで、なんともそっけない。

話はもとに戻るけど、年末年始に日本を留守にする「利点」のひとつは、暮れのあわただしい時に「年賀状」を書かなくても、まあ許されそうなことである。僕はこれまで毎年、日本に戻ってから、正月に届いた年賀状を拝見し、おもむろに「寒中見舞い」で返事を出していた。大変に失礼なやり方ではあるのだけど、こうすると、出すべき相手と全体の枚数があらかじめはっきりと分かって無駄がない。こちらが出していない相手から年賀状が来て、あわてて返事を出すといったことも生じない。

さらには、年末に来た「喪中はがき」に対しても、寒中見舞いでお応えすることができる。まさに、一石何鳥かではあった。

ところが、年末年始に日本にいるとなると、もう年賀状の準備に取り掛からないといけない。本来なら、旅行への期待でわくわくしている頃なのに……いやはや、今年は鬱になりそうである。

「歩き」から「走り」も奮闘中

「腰部脊柱管狭窄症」の手術を終えて2カ月あまり、もっぱら1日平均1万数千歩の「歩き」でリハビリに努めてきたが、そろそろ「走り」もやらねばと、自宅近くの川の土手を走ってみた。ところが、足元がどうもおぼつかない。我ながらよたよたしている。速足で歩いている人にも追い抜かれる始末で、まことにみっともない。

走りの体力を取り戻すには、どうすればいいのかなあ。ふと、80歳でエベレストに登頂した冒険家の三浦雄一郎さんのことが頭に浮かんだ。そうだ、エベレストというわけには、とてもいかないけれど、来年夏あたり「富士登山競争」に挑戦してみようか。「夢」というほどではないけれど、何か高い「目標」がないと、元気も出てこない。

富士登山競争というのは、標高770メートルの富士吉田市役所から標高3711メートルの富士山頂・久須志神社までの21キロメートル、高低差3000メートルを駆け上る競争で、1948(昭和23)年に始まった。山頂コースのほかに、5合目までのコースもある。毎年7月に行われるが、今年はコロナ禍で中止になっている。

実は僕もこれに過去3回、参加している。最初は40年以上前、たしか僕が38歳の時だった。当時はサッカーを熱心にやっていたし、体力には自信があった。当然、山頂コースに参加した。ところが、これが思ったよりもきつい。山頂コースよりもあとで出発した5合目コースの人たちにも追い抜かれる。僕の体力では5合目がやっとだった。幸いというか、その日は山頂の天候が悪く、山頂コースは5合目で打ち切りになった。

翌年も山頂コースに参加したが、申し込む時から5合目での脱落を予定していた。つまり、最初から5合目コースに参加すれば、下手すると、最下位でゴールなんてこともありそうだ。そこで、5合目コースより先に出発する山頂コースに加わっておけば、そんな恥をかかないで済むだろう。まことにずるい策略だった。

それから、ずいぶんと月日は経って2013年、72歳の時にまた富士登山競争に参加した。走ることが大好きな息子から誘われたからだ。この富士登山競争は年々、人気が高まり、山頂コースはそれなりの実績がないと参加できなくなっている。当然、5合目コースに申し込んだ。標高770メートルの富士吉田市役所を出発したあと、標高1400メートル余りの「馬返し」までの11・5キロほどは普通の舗装道路である。市役所と馬返しとの標高差は600メートルほどで、坂道が続く。馬返しとは、ここまでは馬で来られるが、これ以降は勾配が急になり、馬では無理という意味だろう。ここから5合目までは4・5キロほどある。距離自体はそれほどではない。

そして当日朝、富士吉田市役所から勇んで走り出したが、わずか11・5キロの坂道が僕にはこんなにきついとは思ってもいなかった。三十数年前は馬返しからあとはきつかったが、その前については記憶がない。何も感じず、普通に走っていたのだろう。ところが、今回はすぐ最下位になり、時には歩いたりした。地元のテレビ局が取材に寄ってきた。

だけど、自慢?したいのは、そんな僕でもなんとか5合目のゴールまでたどりついたことだ。もちろん最下位で、制限時間をかなり過ぎていたが、途中で脱落者を何人も見ている。脱落しなかっただけ、僕のほうが立派である。来年の7月には、それから8年が過ぎている。もし参加したら、どういうことになるだろうか。

もうひとつ、走りの「目標」として、サッカーの再開も思い浮かんだ。僕は60歳まで勤め先の新聞社のサッカー部で一応、現役としてプレーしていた。新聞社を定年退職した後は中国で暮らすことが多くなったので、その後の20年ほどは、プレーからは遠ざかってしまった。もう一度、やろうかなあ。日本人はおじいさんもおばあさんも元気な人が多く、60歳以上のサッカーチームなんて、いくらでもある。

幸いなことに、僕の長年のサッカー友達で、同年配の男がそんなサッカーチームを率いていて、毎週1回ずつ数時間、練習に励んでいる。このチームに入れてほしいと頼めば、すぐにOKだろう。ところが先般、練習を見に行ってみると、かなりきつそうだ。おじいさんたちの体の動きも実に軽く、参加には二の足を踏む。でも、半年やそこら鍛錬に励めば、しょせんは同年配なのだから、ついていけないこともないだろう。

そんなことをさっきの友人に話したら、「最近はウォーキングサッカーというのもあって、けっこう楽しいよ。どう?」とのこと。うーむ、「夢」だの「目標」だのと、大きく出たけど、これからの僕にはしょせん、その程度が適当だろうか。