「謹賀新年」のあとは僕の「強迫性障害」について

あけまして おめでとう ございます
このところ毎年、中国か台湾のどこかから新年のご挨拶をしていましたが、今年はとてもそういうわけにはいきません。埼玉県の自宅に蟄居しての「謹賀新年」です。今年も駄文にお付き合いくださればうれしいです。

前回のこのコラムで「そうだ 僕も『どもり』だったんだ」というのを書いた。朝日新聞で吃音(きつおん)つまり「どもり」の記事を読んだのがきっかけだった。年末、同じ朝日新聞の電子版を読んでいたら、「強迫性障害」の50歳代の男性記者がその苦しみを9回にわたって連載していた。ここでも僕は思った。「そうだ 僕も『強迫性障害』だったんだ」。そこで、今回はこれについて書きたい。

強迫性障害にはいろんな症状があり、それが出たり消えたりするのだが、この記者は時には何時間も風呂場や洗面所で手を洗い続けることがあった。コロナ禍のずっと前からのことで、手が汚れているのではないか、と気になって仕方がなかったのだ。

記事によると、強迫性障害とは「強迫観念から強迫行為を繰り返す精神疾患」とある。汚れが気になって長時間手洗いをするのが多いそうだが、ほかには、物が左右対称に置かれていないと気が済まない「対称性へのこだわり」というのがある。有名なプロサッカー選手だった英国のデビッド・ベッカム氏もこれで、例えば、冷蔵庫内の飲み物は左右対称に置かれていないと我慢できないそうだ。小学校から中学校にかけての頃、僕にも似た症状があった。

ただ、僕の場合は左右対称へのこだわりはなく、勉強机の上の参考書類がいつも同じ順番で並んでいないと、気が落ち着かなかった。朝、登校前にはそれを2度、3度と確認していた。そして、頭の中では「これは馬鹿馬鹿しいことだ」と思っていた。こんなのがいつまで続いたのか、はっきりとは覚えていないが、いつの間にか消えてしまった。参考書類の順番はまったく気にならなくなった。そして、いま僕が自宅で使っている机の周辺は、本棚もどこも乱雑を極めている。

さっきの記事によると、ガスの元栓などが気になって何度も確認するのも強迫性障害のひとつだ。これにも僕は大いに思い当たる。いま現在がそうで、外出する時、台所や風呂場、ストーブなどのガス器具や水道の栓がちゃんとしまっているか、トイレの水が流れっぱなしになっていないか、戸締りは……といったことが気になる。それらを確認して家の外に出てからも、例えば、「ストーブの栓はちゃんと見たかな。確かめたはずだけど、どうだったかな」なぞと気になりだし、また家の中に戻ることもある。これも「馬鹿馬鹿しいな」とは思うのだけど、再確認して安心したほうが気持ちがいい。

ただ、朝日新聞に記事を書いていた記者に比べると、僕の場合は症状がずっと軽い。そして、それに苦しめられてきたというより、これまでプラスに働いていたのではないかと思っている。というのは、僕は新聞社時代、数字を扱うことが多い経済記者を長くやっていたが、とにかく神経質に確認、確認という性格が幸いしてか、記事の訂正を出したことがほぼない。正確にいうと、20歳代の時、1回だけ訂正を出した。ある会社の株式の配当金を実際より少なく書いてしまったのだ。

その時のことを今でもよく覚えている。記事を書いた日、自宅に戻ってから、風呂の中でその数字が気になりだした。ふとしたら、間違ったのではないだろうか? この時間なら、まだ直せる。ただ、今なら、パソコンかスマホで検索すれば、その会社の配当金はすぐに分かるが、当時はそんな便利なものがなかった。東洋経済新報社が出している『会社四季報』を繰るしかない。だが、自宅にはそれがなく、経済部のデスクに電話して、手元の四季報で調べてもらうしかない。

ただ当時、僕はまだ新米の経済記者だから、大先輩のデスクにそんな手間を煩わせるのはためらわれた。一方で、僕は自分の原稿に間違いがないか、いつも神経質に点検している。その僕が配当金を間違えるなんて、そんなケアレスミスを犯すはずがない。そう自分を納得させて、その夜は寝てしまった。ところが、やはりというか翌朝、当の会社から新聞社に間違いを指摘する電話があり、後にも先にも初めての訂正を出すことになった。

話は変わるが、新型コロナウイルス感染症の拡大が止まらない。そんななかで政府は5人以上の飲食に注意を呼び掛けている。それなのに、菅義偉首相はステーキ店で8人で会食していた。海上自衛隊トップの幕僚長らは14人で送別会をし、うち4人が陽性だった。埼玉県の自民党県議団は約30人で定例会閉会後の打ち上げをやっていた。

それぞれ言い分はあるようだが、太っ腹というか、能天気というか……新型コロナウイルス感染症を恐れて、手洗いその他に励んでいる強迫性障害の僕から見たら、とても信じられない。社会の中枢にいる方たちには、もっと神経質になってほしい。ある程度の強迫性障害になってもらわないと、コロナ禍はなかなか収束しないのではないだろうか。