「1964東京五輪」と僕

今夏の東京五輪パラリンピック聖火リレーが3月25日、福島県から始まった。一方で、新型コロナウイルス感染症は緊急事態宣言の全面解除後、感染再拡大の兆しが顕著になっている。7月23日の五輪開会式まで続く聖火リレーはこの先どうなるの? そして、五輪・パラリンピックは? 政府高官は「もうやめることはできない」と言っているとかで、何やら「やけくそ」な感じ。先行きの明るくない「2020東京五輪」である。

そんな話を見聞きしていると、半世紀以上前の「1964東京五輪」のことがしきりに思い出されてくる。五輪自体が何かと明るかっただけではなくて、僕が希望通りに新聞記者になれたのも、ひとえに五輪のおかげだった。何やら「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話ではあるのだけど……五輪の前年の1963年、僕は大学を卒業し、朝日新聞社に就職した。僕の卒業がその前でも後でも、たった1年でもずれておれば、チャンスはなかったはずである。

僕は在学中、勉強には熱心ではなかった。高校時代の受験勉強でそれなりに疲れていたのだろう。僕の脳みそにはもはや勉強する「余裕」がなく、大学ではサッカー部に入って、練習に明け暮れていた。それでも、そろそろ就職のことを考えなければならない時期になった。さあ、どうするか。銀行、商社、メーカーなど企業のサラリーマンになるのは、どうも気が進まない。一応、法学部にいるので、弁護士とか法曹の道も魅力があるが、そのためにはまず司法試験に通らなければならない。だけど、法律の勉強はろくにしていない。

さて、どうしようかと思案投げ首しているうちに、「そうだ、新聞記者になろう」と思いついた。新聞は毎日、一応は読んでいたが、とりわけ立派な理由があっての新聞記者志願ではない。「新聞記者って、かっこいいよな」という、程度の低い学生だった。

法学部でのゼミは「政治史」だったか「政治学」だったか(ゼミの名前すらうろ覚えなんて、困ったものだが)に入っていた。担当の教授は新聞などによく登場する人だった。ある日の授業で、教授が言った。「君らの中で、朝日新聞の記者になりたいものはいないかな? 僕のゼミから何人か推薦してくれって、朝日から言ってきてるんだ」。えっ、そんなおいしい話って、あってもいいの? 当時、朝日新聞社は学生たちに非常に人気があり、就職希望先のランキングではいつも10位以内、それも中ほどに入っていたはずだ。僕がまともに入社試験を受けても、合格する可能性はゼロに近いだろう。

こんなうまい話を逃す手はない。すぐに手を挙げた。ほかにも挙手した仲間が何人かいた。教授は「じゃあ、君たちの名前を伝えておく。そのうちに、面接の連絡があるだろう」。最初の面接は編集局の幹部だった。これには合格したのだろう、しばらくして「論説主幹」が最終的に面接するとの連絡がきた。彼は世間でもよく知られた論客である。

この面接が大変だった。彼が「何々についての君の意見は?」と次々に質問を繰り出してくるのだが、僕はほとんど答えられない。まさにしどろもどろ、面接の途中で僕は覚悟を決めた。「ああ、やっぱりだめだ。ろくに勉強もしてこなかった僕の責任だ。棚から牡丹餅(ぼたもち)なんて、うまい話があるわけないんだ」

面接が終わり、いささか意気消沈している僕に向かって彼は言った。「君はものごとをあまり深くは考えないようだな。新聞記者に向いているよ」。本音なのか、皮肉なのか。それは別として、僕は確信した。「あっ、面接に合格したんだ」。もし、僕が丁々発止と彼とやりあっていたら、「小生意気な奴だ」と、案外不合格になっていたかもしれない。

なんで、朝日新聞社は僕なんかにまで手を伸ばしてきたのか。あとで聞いたことだけど、日本での五輪はもちろん初めてのことである。取材記者がどれだけ必要なのか、分からないけど、とにかく1年前には採用人数を大幅に増やしておこう。それも、ある程度の人数は早めに確保しておきたい。何しろ、当時は日本経済の高度成長の真っ最中で、就職戦線はもっぱらの売り手市場である。うっかりしていたら、ほかに取られてしまう。そんなことだったようだ。

かくして1963年、ゼミ仲間の何人かと一緒に朝日新聞社に入り、僕は九州の支局に赴いた。そして、翌64年には東京本社から「五輪のサッカー取材で東京に長期出張するように」との通知が来た。入社だけでも幸運だったのに、五輪が取材できるなんて、「ボーナス」がついてきたようなもの。学生時代、サッカー部にいたおかげだ。

その後、同僚や後輩から「岩城さんは裏口入社だったんですってね」と聞かれることが何回かあった。僕は一蹴した。「裏口入社っていうのはね、私を入社させてくださいと、自分から頼んで入れてもらうことだよね。場合によっては、カネを包む。僕らは逆で、会社から『ぜひ来てください』と頼まれたから、入社してあげただけなんだよ。正面玄関から入ってきているんだ」。そうは言うものの、正面は正面でも、ちょっと横の入り口から入ってきたような気もしていたが、この新聞社で機嫌よく定年まで勤め上げた。

いわゆる就職氷河期に遭遇したり、今またコロナ禍による就職難に直面したりの若者たちに対しては、まことに申し訳ない限りの「与太話」を書いてしまった。だけど、僕にとっては、まさに足を向けては寝られない、大変にありがたい「1964東京五輪」だった。