我らが青春の「学業成績」から

昔々、僕が大阪の府立高校に通っていた頃の友人イノウエ君から、在学中に何度かあった「実力考査」の成績一覧表が(ひょんなことがきっかけで)メールで送られてきた。最初の試験は「入学時実力考査」と称して、入学直前の昭和31(1956)年3月に行われている。65年前のことで、科目は数学と英語。試験を受けたのは男女の450人だった。

その結果は僕も割合に覚えている。思っていたのよりも、ずっと順位が下で、母親が不機嫌だったからだ。今、改めて見ると、36番である。全体の1割以内にいるのだから、まあまあのはずだけど、それはそれとして、僕と同じ36番にタカハシ君の名前があった。彼は同じ中学校の1年生の時の同級生で、とにかくよくできた。600人以上もいる1年生の中で、いつも1番。イワキ君もなんとか10番以内にいたはずだが、とてもかなわない。彼は光り輝いていた。

そんなタカハシ君もそのうちに1番の座からすべり落ち、代わったのは別の組のキシモト君だった。そして、高校の「入学時実力考査」でも1番はキシモト君。彼は中学校でも高校でも学年で1番。母上もご機嫌がよかったことだろう。中学校時代は彼と競ったタカハシ君もイワキ君もずっと後ろのほうである。

以後、イワキ君もいくらかは発奮したのだろう。「36番」からは抜け出して、1年生から2年生にかけては、何とかベスト10あたりにいる。ところで、さすがのキシモト君も中高続けて1番を維持するのは大変だったみたいだ。そのうちに、少し落ちてきた。だけど、相変わらず順番はイワキ君の上である。一方のタカハシ君は落ちていくばかり。多分、イワキ君のように「優等生でいたい」という平凡な生き方ではなくて、「人生」に対する考え方を変えたのではないだろうか。

ところで、なんとかベスト10あたりにいたイワキ君だが、3年生になると、1年生の最初の試験に近いくらいに落ち込んでいる。「言い訳」が思い浮かんだ。ある事情で、しばらく十分な勉強ができなかったのだ。

僕は2年生の3学期、目がちゃんと見えなくなった。もともと近眼で、眼鏡を掛けていたのだが、教科書にどんなに目を近づけても字が読めない。字がぐちゃぐちゃしているし、いくつにも見える。黒板の大きな字も全く分からない。通学はなんとかできるが、授業に出ても、ただ聞いているだけ。こんな期間がかなり続いた。僕は割に能天気な人間なので、「そのうちに治るだろう」と、親にも黙っていたが、そんな気配は一向にない。仕方なく親に打ち明け、父親と一緒に大阪赤十字病院の眼科に行った。

診断の結果、目の角膜が円錐状に飛び出してくる「円錐角膜」という難病だった。眼鏡なんかでは、とても矯正できない。僕を診た二人の眼科医は「これじゃ、どうしようもないなあ」とつぶやいている。僕も少し暗い気持ちになりかけた時に、一人の医者が「コンタクトレンズを入れたら、少しは見えるかもしれない」と言い出した。当時「コンタクトレンズ」なんて言葉は、僕も父も初耳だった。

紹介してくれた大阪市内の「水谷眼科」というところに行った。あとで知ったのだが、ここは日本におけるコンタクトレンズの草分け的存在で、当時、コンタクトレンズを使っている人は全国でも数千人という話だった。結果はまさに「ばっちり」で、教科書の字も黒板の字もちゃんと読めるようになった。同じ円錐角膜でも、症状が進んで角膜がさらに飛び出してくれば、コンタクトレンズも間に合わなくなるそうだが、僕の症状は一段落していたようだった。もしこの時、コンタクトレンズに出会わなければ、僕の人生は随分と変わっていたことだろう。

おかげでイワキ君の成績も盛り返した。3年生秋の実力考査では、上から落ちてきたキシモト君が6番、イワキ君も同じ点数で6番。ついにキシモト君に追いついたのだが、タカハシ君はずっと後ろのほうで300番くらい。そのタカハシ君の写真は卒業アルバムにはあるが、卒業後の同窓生名簿には名前がない。どんな生き方を選んだのだろうか。

以上の成績一覧表を送ってくれたイノウエ君は、出身の中学校は違うけど、1年生の時の同級生だ。実力考査では当時76番と、イワキ君ともそれほどは違わない。ところが、タカハシ君と似て、2年生では120番、3年生では284番と、着実に下がっていった。「映画や小説に夢中になったせい」だそうだ。大阪湾に注ぐ大和川の近くに住んでいて、今は釣り三昧のかたわら、川岸に打ち上げられるゴミの収集にも、ボランティアで取り組んでいる。なかなかに充実した暮らしぶりだ。とりわけ最近は、中国のテレビドラマに熱中して、ついでに中国語の勉強も始めたとのこと。中国語ではそのうちに、さすがの優等生イワキ君も追い抜かれるかもしれない。
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ところで、これら成績一覧表はすべて「手書き」のガリ版刷りである(上の写真)。氏名、順位、組、そして英、数などの試験科目に合計点――ワープロも何もなかった時代に、先生が書かれたのか、事務職員の仕事だったのか。450人についてそれらを記すのは、大変な手間だっただろう。成績一覧表を眺めて、懐かしさに浸りながらも、そのご苦労がしのばれるのである。