亡き母の「戦中日記」

この12月8日が1941年の「真珠湾攻撃」からちょうど80年というので、当時を生きた人々の話が新聞、テレビなどのメディアをにぎわせている。僕はその日米開戦から1年ちょっと前の1940年11月19日に大阪で生まれた。大阪とは言っても、当時は「大阪府中河内郡大戸村石切」と呼ばれていた、奈良県境に近い農村で、母が31歳、大阪府庁に勤める父が34歳の時だった。前年の春に結婚した夫婦の最初の子供である。

僕の両親はあの真珠湾攻撃をどのように受け止めたのだろうか。新聞記者をしていたくせに、僕は生前の両親に何も尋ねていなかった。馬鹿じゃないか。でも、あ、そうだ、母が残してくれた僕の「育児記録」がある。申し訳ないことに、これまでろくに読んでいなかったが、本棚の隅から引っ張り出してきた。実業之日本社の発行で、育児方法なども詳しく記した160ページ余りの冊子。表紙には、右から左に横書きで「ベビーブック」とある。母の「戦中日記」を読む気持ちで、ページを繰っていった。

まずは僕の生後120日目の「食い初め」の祝い。「美しい膳に、器に、元(僕のこと)の御馳走が並ぶ」と書いた後、「時節柄、酒はない。残っていたビールを抜いてお祝いをする」。酒好きの父には物足りないご時世だったことだろう。

次いで僕の生後11カ月、つまり1941年10月に「日支事変5年目にして米穀通帳制実施せられ、配給になる」とある。日支事変とは1937年7月7日に勃発した日中戦争のこと。そして、米の配給は「大人で(1日)2合3勺、5歳までは8勺だが、元は11カ月で8勺は1食分しかない」とぼやいている。

「合」だの「勺」だの、最近ではほとんど目にしない単位が出てきた。穀物を量る単位には、あと「石」「斗」「升」がある。自分なりに復習してみた。1升の10倍が1斗、1斗の10倍が1石。1升の10分の1が1合、1合の10分の1が1勺である。そして、日本人が1日に食べる米の量は普通3合、1年に1石とも言われてきた。1石は1000合だから、1日に3合ずつとすれば、330日食べられる。米の消費が随分と減った現代とは違い、当時の大人はまだ1日に3合やそこらは食べていただろう。それが配給になって2合3勺とは、情けない。大人も子供も腹をすかせたまま、米国との戦争に突入していった感じである。

僕が満1歳になってすぐ真珠湾攻撃があったのだが、これについての記述は意外に簡単だ。「大東亜戦争の大詔渙発さる」と1行あるだけだ。大詔とは天皇が国民に告げる言葉、煥発とはそれを広く天下に発布すること。母はどう感じたのか。全く分からないが、外出していて「兵隊さん」に会うと、僕は「ボク ヘイタイサン スキ」「ボク オオキクナッテ ヘイタイサンニナル」と大声で叫んでいたとか。それなりの「軍国少年」だった。

僕が満3歳の頃、1944年になると、「戦争もいよいよ苛烈になり、日本本土が空襲にさらされる危険が切実になる」「防空壕を家ごとに用意することになる。うちでも裏の山を崩して作ることにする。しかし、作っては崩れ、作っては崩れして、何度も何度も無駄な努力を続ける。これが建設への努力ならと何度も思う」と、戦時色が濃くなってくる。裏の小山に掘ったこの防空壕には、僕も何度か入った記憶があるが、「作っては崩れ」とは、随分と危うい防空壕だったようだ。

僕が満4歳、1945年になると、育児記録はもっぱら戦争のことになる。「元を1年早いが、4歳で幼稚園に行かせたいと思っていたが、米機の来襲が激しくなり、往復が不安なので止める」。最近は、小学校や幼稚園に通う子供達が車に突っ込まれ、死傷するという痛ましい事故が絶えないが、当時の脅威は車ではなく、米軍の戦闘機だった。

母の記述は続く。「3月14日、大阪が大空襲を受け、中心街が一夜にして焼け野原と化して以来、次第に空襲は激しくなり、石切のような田舎でも、空襲警報のサイレンがうなるたびに、防空壕に飛び込む。石切の空にもB29やグラマン戦闘機などアメリカの新鋭機の姿を度々見かけるようになる」。そして「日夜、空襲の危険にさらされながら、物資の不足、その中でも最も深刻な食糧の不足に耐えつつ育ってゆく子供達は可哀想だ」と続く。僕より3年半ほど後に、弟が生まれていた。

敗戦へと時代は動く。「戦争の前途にも次第に光明が感じられなくなってきた時、ソ連の対日宣戦、広島に投ぜられた原子爆弾からポツダム宣言受諾となり、我々の予想より早く終戦となる。8月15日、よかった。ここしばらくは今まで以上の苦難の道が続くだろうが、今までの破壊に引き換え、これからは建設の希望がある。防空頭巾を脱いで、子供達も伸び伸びと育ってゆくだろう」。敗戦に対して「悔しい」「残念」といった表現は全くない。ただ喜んでいる。そして、「ただ、戦争により親を失った戦災孤児のことを考えると、暗澹たるものがある。戦死によりその子、その父を失った人達の将来も寂しい」「けれど、我々家族には何の損傷もない。一家そろって暮らせる我が家に母はこよなく感謝している」。

育児日記には、そのあとも書く欄が結構あるが、母の記述は上の文で途切れている。戦後すぐ弟がもう1人生まれた。多分、子供達を食べさせるのに精一杯で、ペンを持つ余裕などはなかったのだろう。