たかが校歌 されど校歌

この夏、4年ぶりに開かれた高校同期の同窓会に出るため、泊まりがけで大阪に行ってきた。府立の高校で、同窓会自体はそれなりに楽しかった。だが、お開きの前の「校歌斉唱」では、壁に映し出される歌詞を目で追いながら、ちょっと白けてしまった。確かに記憶にはあるけれど、こんなに冴えない文句だったかなあ?

「あゝ朝霧の立ち籠むる 山の彼方を究むれば 豊けき泉命あり
若き心はあこがれて 真理(まこと)の扉開かんと、共に勤しむこの天地」

以上が1番で、2番は「あゝいや深き師の恵み」「明日の理想の達成に」「信ずる道を進み行く」、3番は「三とせをこゝに学び舎の 白亜の姿仰ぐとき 若き力は溢るなり その名もゆかしわが〇〇」なぞと続く。最後の〇〇はたった1回だけ出てくる校名だが、校歌の悪口を言っている手前、伏せ字にさせていただく。

だけど、母校は実にいい高校だった。とにかく自由で、校則なんて、あったのか、なかったのか、それさえ知らなかった。でも、「真理の扉」「明日の理想」「信ずる道」などなど、道徳の授業にでも出てきそうな「徳目」を並べられると、いささかへそ曲がりの僕はうんざりしてしまう。そもそも、真理の扉を開こうとして、この学校に入ったつもりは全くなかった。そんな大げさなことは頭の片隅にもなかった。

そういうこともあって、甲子園の高校野球大会のテレビ観戦では、試合後などに流れる各校の校歌に興味を持った。まず、初優勝し、東北に初めて優勝旗を持ち帰った仙台育英高校の校歌は「南冥遥か天翔(あまかけ)る 鴻鵠(こうこく)棲みし青葉城 ああ松島や千賀の浦 天の恵める青葉郷 ここに根ざしし育英の 我が学舎に栄光あれ」。昭和5年(1930年)制定だそうで、歌詞はなかなかに重量感がある。

「鴻鵠」の「鴻」も「鵠」もともに大きな鳥のこと、大人物の比喩でもある。「青葉城」は「仙台城」のことで、ここで言う「鴻鵠」は戦国時代の武将「伊達政宗」を指すのだそうだ。学校の近所の景勝地を並べ立て、最後に「我が学舎に栄光あれ」は、校歌のひとつの典型だろう。面白くはないが、まあ、わが母校のそれよりはましである。

準優勝の下関国際高校の校歌は「紺碧の空燦爛と 日輪燃ゆる四方の山 ここに聳ゆる学び舎に 我ら集いて颯爽と 久遠の理想かかげ立つ」。「四方の山」は所在地の名前から来ているようだ。そこに太陽が燃えるように輝き、我々は久遠の理想を掲げて立っている……これも面白くはないが、わが母校のそれとどっこいどっこいだろうか。

まあ、甲子園大会の参加校は全国で3500を超えるのだから、つい口ずさみたくなるような校歌もあるだろう。でも「口ずさみたくなる」と言えば、戦後になくなった旧制高等学校の「寮歌」の類に勝るものはないのではないか。

例えば、第三高等学校の「紅萌ゆる丘の花 早緑匂う岸の色 都の花に嘯けば 月こそかかれ吉田山……」、北海道帝国大学予科の「都ぞ弥生の雲紫に 花の香漂う宴遊(うたげ)の筵(むしろ)……」、旧満州の旅順高等学校の「窓は夜露に濡れて 都すでに遠のく 北へ帰る旅人ひとり 涙流れてやまず……」(北帰行)。僕の30歳代の半ば、東京から北海道に転勤になり、夜汽車で北に向かいながら、思わず「北帰行」を口ずさんでしまった。第一高等学校の「嗚呼(ああ)玉杯に花うけて 緑酒に月の影宿し……」も、いささかエリート臭が気になるけど、悪い歌ではない。

ところで、これらの寮歌はおおむね、旧制高校の生徒たちが自ら作詞、作曲したものだそうだ。その総数は2500とも3000とも言われる。その中で「紅萌ゆる丘の花」など人々の琴線に触れたものが、今も歌われているのだろう。

ついては、甲子園に集う新制の高校生たちも、旧態依然(?)ではなく、今の自分たちにふさわしい校歌を新しく作詞、作曲してみてはどうだろうか。甲子園ではその校歌を披露する。大会はいっそう盛り上がる。そして、そのうちのあるものは、旧制高校の寮歌のように、10年、20年…50年、100年と、歌い継がれていく。この夏、甲子園でいくつもの校歌を見聞きした僕の「夢想」である。