政治家による 政治家のための……国葬

9月27日の安倍晋三氏の国葬の日が近づいてきた。戦後の国葬は、昭和天皇大喪の礼など皇室関係を除くと、1967年に死去した吉田茂元首相以来で、2人目だ。反対論の多い安倍氏国葬挙行について、岸田文雄首相は「憲政史上最長の8年8カ月にわたって首相を務めた」「各国から様々な形で敬意と弔意が示されていることに対し、礼節を持ってお応えする必要がある」などを理由に挙げている。

だけど、残念(!?)ながら、安倍氏国葬の前の19日には、英国のエリザベス女王国葬がある。「在位70年超」の女王に比べると、首相を務めた年数だけではなく、各国からの敬意や弔意の点でも安倍氏はかなり分が悪そうだ。例えば、女王の国葬には米国からバイデン大統領が行くが、安倍氏のそれに来るのはハリス副大統領。「違い」を見せつけられるようで、安倍氏が気の毒なくらいだ。

それはそれとして、国葬とは、手元の辞書によると、「国家的功労のあった人に対し、国の儀式として国費で行う葬儀とある」。吉田氏も安倍氏も国家的功労があったのだろう。そして、吉田氏も安倍氏も元首相、つまり政治家である。ん!? 国葬ってわが国の場合、職業が政治家で、それも首相を務めなければ、対象にならないのだろうか。

ふと、湯川秀樹博士(1907~1981)が頭に浮かんだ。湯川氏は1949年、ノーベル物理学賞を受けた。日本人としては初めてのノーベル賞で、敗戦に打ちのめされていた日本人に希望や勇気を与えたと言われている。僕は当時、小学校3年生。世の中のことはまだ何も分かっていなかったが、小学校の朝礼で校長先生がいつになく高揚して長々としゃべっていたのを覚えている。湯川氏のその後の反核運動平和運動への貢献を考えても、同氏には国家的功労に加えて世界的な功労があったのではないか。でも、湯川氏を国葬にという話はついぞ聞いたことがない。

あるいは、中村哲医師(1946~2019)はどうだろうか。同氏は長年、アフガニスタンで医療活動に携わる傍ら、干ばつによる食料不足に苦しむ人たちを救うため、土木技術を独学で学び、用水路の整備に取り組んできた。再生させた農地は1万6500ヘクタール、65万人の命を支えていると言われている。志半ばで武装勢力に襲われ、命を落とされたが、こういう人を国葬にしても、反対論は少ないのではないだろうか。

外国でも国葬の対象は政治家など権力側の人たちだけなのか? ネットのフリー百科事典「ウィキペディア」を見てみたら、英国では、王族以外ではウィンストン・チャーチル元首相らと並んで、万有引力アイザック・ニュートン、進化論のチャールズ・ダーウィン国葬の対象となっている。フランスでは、古くは『レ・ミゼラブル』のビクトル・ユーゴ―、最近ではシャンソン歌手のシャルル・アズナブールがそうだ。ちなみに、アズナブールはアルメニア系の人である。

アジアに目を転じれば、台湾(中華民国)では蒋介石蒋経国といった権力者に並んで、歌手のテレサ・テンがそうである。何年か前、彼女の旧居を探して、台北の街外れを歩き回ったことを思い出した。インドでは、修道女のマザー・テレサ国葬されている。話を最初の英国に戻すと、看護婦のフローレンス・ナイチンゲール国葬を打診されたが、遺族が辞退したという。

わが国には今、国葬についての法律がない。だから、吉田氏の国葬も、安倍氏のそれも、どうにも納得がいかないような「理屈」のもとでの挙行となっている。もし、これからも国葬をやっていくのなら、やはりきちんとした法律が必要だろう。その際、誰の国葬をやるかについては、政治家だけに任せるのではなく、各界、それこそ芸能界、スポーツ界などからも人を集めた「国葬選考委員会」なるものをつくる。そこで決まった国葬の「候補者」については、国会で最終判断する――そんなことを検討してもいいのではないか。以前のこのコラムで、政治家の国葬はするな、と書いたが、このようにするのであれば、政治家が国葬の対象になっても反対はしない。

国葬に掛ける費用についても、この委員会で一定の歯止めを掛けてはどうか。コロナ禍のせいもあってか、最近は「小さなお葬式」が流行っている。安倍氏国葬に掛かる16億6000万円は何としても多すぎる。10万円の葬式なら1万6600回、少し張り込んで100万円の葬式でも、1660回も出来る勘定だ。

そういったことを考えなければ、わが国の国葬はいつまでも「政治家による 政治家のための 税金を使った大きなお葬式」に終始するのではないだろうか。