「酒抜き」の夕食に葛藤

長引くコロナ禍——蟄居ばかりではあんまりなので、時には暇つぶしにかなり長い距離の散歩に出かけている。昼過ぎに家を出て、1人で1時間、2時間、3時間……まさに足の向くまま気の向くまま。そして散歩の終点あたりで、安全そうな飲食店を探して、適当に飲み食いする。それが楽しみなのだが、足の向くままとはいえ、散歩に当たって気をつけていることがある。ひとつは電車で帰ることを考えて、JRなどの沿線からあまり離れないように歩くこと、もうひとつは自宅のある川越市の市域を抜け出すことである。

というのは、わが埼玉県は緊急事態宣言こそ出ていないものの、さいたま市など15市町を「蔓延防止等重点措置」(余談ながら、「まん防」なぞという間の抜けた表現はしたくない)の対象区域にしていて、川越市もそれに入っている。15市町は緊急事態宣言が出ている東京都に近いところである。そして、飲食店の入り口には、無粋なことには「酒類は提供いたしません」との張り紙がしてある。

だけど、食事とりわけ夕食を「酒抜き」で済ませるなんて、僕はとても我慢できないし、想像さえしたくない。まずはビールが飲みたい。ビールが最初に喉を通る時のうまさは格別である。生きていることを実感する。無趣味のせいもあって最近、退屈な日々を送っているだけに、その瞬間がなくなれば、生きる希望が失せてしまう。

不幸中の幸いというか、わが川越市は県内の「蔓延防止等重点措置」対象区域の西の端に位置している。つまり、自宅を出て西方に歩くだけで、ここを「脱出」することも難しくはない。新規の感染者も西に行くほど少なくなり、「ゼロ」の市や町も多い。ただし、重点措置の区域外でも、県の要請とかでいくらか制限があり、酒類提供は「お一人様」か「同居家族」に限るとのこと。じゃあ、数人連れで来て、それぞれ別の席で飲んだら、どうするの? 同居家族かどうか、どこで見分けるの? 疑問はあるけれど、僕の場合はいわゆる「個食」「黙食」だから、何の問題もない。店に入るのも、夕方の早い時刻で、おおむね相客もいない。感染の危険もほぼゼロのはずである。

そうは言っても、たまには生活必需品を買うために、重点措置の対象区域である川越市の街中に出かけることもある。「酒類を提供しない」店ばかりである。そんな時には、夕食時のビールをどうするか? 持ち込みも駄目なようだ。じゃあ、スーパーかコンビニで買った缶ビールを、そこらのベンチに腰かけて飲み、ほろ酔い気分で店に入る。そして酒なしで食事する。それしか、方法がない。まあ、まともな人間がやることではないだろうけど、それを実行している。

ただ、ネットで「県民の皆さんへのお願い」を読んでみると、「路上、公園などにおける飲酒を控える」というのもある。僕の行動は明らかに、それに背いている。でも、県の要請は多人数での酒盛りはやめてほしいという意味だろう。僕の場合は、さっきの個食、黙食という表現に倣えば「個飲」「黙飲」である。まあ、許されてもいい。

ところで、また「そうは言っても」となるのだけど、食事中にも少しは酒を飲みたい。口を湿らすだけでもいい。全くの酒なしはなんとも寂しい。ひそかに飲む方法はないだろうか。ウイスキーや日本酒の小瓶を持ち込む手もあるだろう。でも、あれは瓶が割合に目立つ。店員から「お客様、お酒の持ち込みは……」を言われたら、なんとも恥ずかしい。
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いろいろ考えた末、焼酎の小さなボトルがいいことに気づいた。上の写真がそれで、左側はプラスチックで包装してあるが、これをはがすと、やはりプラスチックの透明の容器(右側)が現れる。焼酎が入っているとは思えないし、小さくてズボンのポケットにも入る。店員の目を盗んでちびちびやるのに向いている。

ただし、これもまともな人間が考えることとは思えないし、「ルール」にも背いている。なので、まだ実行には移していないが、これがポケットやリュックの中にあると思うだけで、なんとか酒を我慢できないこともない。卑しいものである。

コロナ禍が早く終息して、本来はまともな人間である僕が、こそこそせずに普通にふるまえる日が戻ってきてほしいものである。

「ワクチン接種申し込み」騒動記

わが埼玉県川越市でも高齢者向けの「新型コロナウイルスワクチン接種券」が送られてきた。僕のかねての主張は「ワクチン接種はまず、出歩くことが多く、したがって感染しやすい若い世代から始め、蟄居も可能な高齢者はその後で」というものだが、接種券までが届いてしまった。主義主張には反するが、せっかくだから接種をお願いしよう。予約方法は電話とWEBの2通りだ。電話はなかなか繋がらないそうだけど、何十回か掛ければ、なんとかなるだろう。WEBも扱えないことはない。そう思い、のんびりと構えていた。

ところが、ある日の朝日新聞「かたえくぼ」欄を見ると、『家族総出』と題して「昔――田植え 今――ワクチン接種予約」というのが載っている。えっ、そんなに大変なの!? あわてて、僕の分は千葉県在住の長男、妻の分は神奈川県在住の長女に頼むことにした。

予約申し込みの当日、開始時刻の午前9時、パソコンの前に座った。パソコンの横にはスマホを置いて、息子や娘からの連絡を待った。そして、10分、20分、30分……一向に朗報がやってこない。イライラして、2人にメールを送った。ただし、文面だけは穏やかに「面倒をかけて、申し訳ない。無理しなくても、いいんだよ」。そのうちに娘から短い返事が来た。「やっと病院を選ぶところまで来たけど、しょっちゅう切れる!」

午前10時ごろ、川越市役所から妻あての「ワクチン接種予約が完了いたしました」というメールがきた。娘のほうは予約に成功したようだ。後で本人に聞くと、目の前にパソコン、スマホ、固定電話を並べて取り組んだ。電話は一度も繋がらず、パソコンとスマホは何度か繋がったが、「病院選択」「日時選択」など7つほどある「関門」を続けて通るのが難しく、前の画面に戻ったり、初めからやり直したり。揚げ句はエラーになる。艱難辛苦、やっと1つ、予約できたので、以後は僕のために、息子と娘が協力することになった。

息子も午前9時以降、パソコンでひたすらログイン画面を目指すが、なかなか繋がらない。同時にスマホからも電話し、傍らでは息子の妻も固定電話で掛け続けたが、これも繋がらない。やっと10時半ごろ、娘のスマホが繋がって、僕の分も完了した。「戦闘開始」から1時間半。それまでに息子が掛けた電話の回数は159回に達していた。接種日は開始の日から1週間ほど後になったが、医院は我が家から歩いて10分ほどのところにある。まずまずの「戦果」であろうか。

今回のワクチン接種の申し込みでは、僕は長男と長女に協力を頼んだが、万全(?)を期すならば、横浜市在住の次男にも頼んでおき、僕自身も「参戦」する手があった。まさに家族総出で、4カ所から攻め立てれば、もっと早く予約が取れたかもしれない。だけど、そんな単純な話ではない。

つまり、この種のことは今回、全国津々浦々で起きている。おかげで、電話もWEBもなかなか繋がらず、みんながイライラし、システムはパンクしてしまう。例えば、電話を掛けて話し中なら、しばらく待って掛け直す。そうすれば、いつ掛けても話し中ということが減るかもしれない。だけど、とにかく早く予約したい。そんな人たちにそれを言っても、無理というものだ。恥ずかしながら、僕もそうだった。同じ国民がこんなことで、それこそ目を三角にして競い合っているなんて、笑い話では済まされない。

それはそれとして、我が家にときどき顔を出す近所のご老体がいる。予約開始日の翌日、予約できたかどうかを尋ねると、何度も電話したけど駄目だったとのこと。それで、息子さんにでも頼んで、WEBでやったほうがよさそうだよ、と勧めておいた。数日後、また我が家に見えた折に結果を聞くと、ふと思いついて、かかりつけの医者に相談したら、接種券を持ってきたらOKと言われたとのこと。えっ、そんな手もあるんだ!? ご老体は善良そのものの人物だから、彼を責めたくはないけれど、なるほど、世間ではこの種のことがちらほら起きている。

前後して、上海に住む中国人の知人から「自分もワクチンを接種しました」とのメールが来た。「副反応が怖いので、これまでは接種を渋っていたが、周りの人たち皆がしているので」という。で、どんなふうに、どこで、と問い合わせると、上海の街中にはあちこちに接種会場があり、ぶらりと訪れても、身分証を示せば、すぐにその場で接種してくれるとのこと。別世界の話みたいだ。中国製ワクチンに対してわが国では「有効性に疑問がある」などと悪口を言ったりしているが、今回の「騒動」を思い返すと、そんなことくらい、どうでもいいじゃないの、と思われてくるのである。

我らが青春の「学業成績」から

昔々、僕が大阪の府立高校に通っていた頃の友人イノウエ君から、在学中に何度かあった「実力考査」の成績一覧表が(ひょんなことがきっかけで)メールで送られてきた。最初の試験は「入学時実力考査」と称して、入学直前の昭和31(1956)年3月に行われている。65年前のことで、科目は数学と英語。試験を受けたのは男女の450人だった。

その結果は僕も割合に覚えている。思っていたのよりも、ずっと順位が下で、母親が不機嫌だったからだ。今、改めて見ると、36番である。全体の1割以内にいるのだから、まあまあのはずだけど、それはそれとして、僕と同じ36番にタカハシ君の名前があった。彼は同じ中学校の1年生の時の同級生で、とにかくよくできた。600人以上もいる1年生の中で、いつも1番。イワキ君もなんとか10番以内にいたはずだが、とてもかなわない。彼は光り輝いていた。

そんなタカハシ君もそのうちに1番の座からすべり落ち、代わったのは別の組のキシモト君だった。そして、高校の「入学時実力考査」でも1番はキシモト君。彼は中学校でも高校でも学年で1番。母上もご機嫌がよかったことだろう。中学校時代は彼と競ったタカハシ君もイワキ君もずっと後ろのほうである。

以後、イワキ君もいくらかは発奮したのだろう。「36番」からは抜け出して、1年生から2年生にかけては、何とかベスト10あたりにいる。ところで、さすがのキシモト君も中高続けて1番を維持するのは大変だったみたいだ。そのうちに、少し落ちてきた。だけど、相変わらず順番はイワキ君の上である。一方のタカハシ君は落ちていくばかり。多分、イワキ君のように「優等生でいたい」という平凡な生き方ではなくて、「人生」に対する考え方を変えたのではないだろうか。

ところで、なんとかベスト10あたりにいたイワキ君だが、3年生になると、1年生の最初の試験に近いくらいに落ち込んでいる。「言い訳」が思い浮かんだ。ある事情で、しばらく十分な勉強ができなかったのだ。

僕は2年生の3学期、目がちゃんと見えなくなった。もともと近眼で、眼鏡を掛けていたのだが、教科書にどんなに目を近づけても字が読めない。字がぐちゃぐちゃしているし、いくつにも見える。黒板の大きな字も全く分からない。通学はなんとかできるが、授業に出ても、ただ聞いているだけ。こんな期間がかなり続いた。僕は割に能天気な人間なので、「そのうちに治るだろう」と、親にも黙っていたが、そんな気配は一向にない。仕方なく親に打ち明け、父親と一緒に大阪赤十字病院の眼科に行った。

診断の結果、目の角膜が円錐状に飛び出してくる「円錐角膜」という難病だった。眼鏡なんかでは、とても矯正できない。僕を診た二人の眼科医は「これじゃ、どうしようもないなあ」とつぶやいている。僕も少し暗い気持ちになりかけた時に、一人の医者が「コンタクトレンズを入れたら、少しは見えるかもしれない」と言い出した。当時「コンタクトレンズ」なんて言葉は、僕も父も初耳だった。

紹介してくれた大阪市内の「水谷眼科」というところに行った。あとで知ったのだが、ここは日本におけるコンタクトレンズの草分け的存在で、当時、コンタクトレンズを使っている人は全国でも数千人という話だった。結果はまさに「ばっちり」で、教科書の字も黒板の字もちゃんと読めるようになった。同じ円錐角膜でも、症状が進んで角膜がさらに飛び出してくれば、コンタクトレンズも間に合わなくなるそうだが、僕の症状は一段落していたようだった。もしこの時、コンタクトレンズに出会わなければ、僕の人生は随分と変わっていたことだろう。

おかげでイワキ君の成績も盛り返した。3年生秋の実力考査では、上から落ちてきたキシモト君が6番、イワキ君も同じ点数で6番。ついにキシモト君に追いついたのだが、タカハシ君はずっと後ろのほうで300番くらい。そのタカハシ君の写真は卒業アルバムにはあるが、卒業後の同窓生名簿には名前がない。どんな生き方を選んだのだろうか。

以上の成績一覧表を送ってくれたイノウエ君は、出身の中学校は違うけど、1年生の時の同級生だ。実力考査では当時76番と、イワキ君ともそれほどは違わない。ところが、タカハシ君と似て、2年生では120番、3年生では284番と、着実に下がっていった。「映画や小説に夢中になったせい」だそうだ。大阪湾に注ぐ大和川の近くに住んでいて、今は釣り三昧のかたわら、川岸に打ち上げられるゴミの収集にも、ボランティアで取り組んでいる。なかなかに充実した暮らしぶりだ。とりわけ最近は、中国のテレビドラマに熱中して、ついでに中国語の勉強も始めたとのこと。中国語ではそのうちに、さすがの優等生イワキ君も追い抜かれるかもしれない。
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ところで、これら成績一覧表はすべて「手書き」のガリ版刷りである(上の写真)。氏名、順位、組、そして英、数などの試験科目に合計点――ワープロも何もなかった時代に、先生が書かれたのか、事務職員の仕事だったのか。450人についてそれらを記すのは、大変な手間だっただろう。成績一覧表を眺めて、懐かしさに浸りながらも、そのご苦労がしのばれるのである。

「電線絵画」はお好き?

新聞を眺めていたら、東京の練馬区立美術館で「電線絵画展 小林清親から山口晃まで」なるものが開催中(4月18日まで)という記事が目についた。明治以来現代まで、電線や電柱を描いた絵画を集めたのだそうだ。小林清親は明治の頃の浮世絵師、山口晃は現代の画家、浮世絵師。展覧会に対する新聞の評は好意的である。

えっ、また、なんで、そんな展覧会をやるの!? 僕はかねがね、我々の頭上を覆う電線、電柱やあのグロテスクな変圧器が大嫌いである。震災などの際に、安全上の問題があるだけではなく、何よりも景観を壊している。機会があるたびに、電線や電柱の地中化・無電柱化を訴えてきた。あんなものを絵に描こうなんて、その神経が信じられない。僕の神経が逆なでされたような気分である。
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まあ、いずれにせよ、「電線絵画展」なるものを見てやろう。コロナ禍のもとではあるけれど、思い切って、練馬区立美術館に出かけた。展覧会のチラシには小林清親の「従箱根山中冨嶽眺望」という錦絵が使われ、富士山を背景に電柱と電線(正確には、電報などを送るための電信柱と電信線)が描かれている(上の写真)。明治13(1880)年の作品で、チラシには「富士には 電信柱も よく似合ふ」というキャッチコピーがついている。さらには、漢字の「電」と「線」の間、「絵」と「画」の間には、電線らしきものが何本もわざわざ描いてある。ますます僕の神経をいらだたせる。

美術館に入った。平日の午後だった。観覧料は一般1000円。後期高齢者の僕は無料だったけど、「高い観覧料を払ってまで、電線絵画を見に来る人なんて、そうはいないだろう」という僕の予想は、見事に裏切られてしまった。展示の絵画などは150点くらいだっただろうか。その一つ一つの前には、老若男女の1人やそこらは、立ち止まって見入っている。まさに「盛況」である。
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僕にはいささか不愉快だったけど、勉強になることも少なくなかった。まずは、電信柱や電信線が入ってきたのは幕末で、それはさっきの錦絵に描かれているが、東京で電気の供給が始まったのは明治20(1887)年だったとのこと。つまり、電柱や電線が生まれた。そして、そのころに誕生した洋画家の岸田劉生は電柱や電線を描くのが好きだったらしい。チラシにあったその一つが上の絵で、「代々木附近(代々木附近の赤土風景)」と題した大正4(1915)年の作品。真ん中には電柱がデンと構えている。岸田劉生と言えば、僕は不勉強で、愛娘を描いた一連の「麗子像」しか知らなかった。
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岸田劉生の作品と同じ頃のものとしては、川瀬巴水の「東京十二題 木場の夕暮」という木版画(上の写真)もあった。電柱、電線が大嫌いでも、まあ、いくらかはほのぼのとした感じもある。
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それに比べ、時代は下り、昭和25(1950)年頃のものという朝井閑右衛門の「電線風景」(上の写真)はまあ、すさまじい。油彩の厚塗りという画法のせいもあろうが、僕にはもう耐えられない。
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そして、現代の山口晃は電柱、電線を愛し、それらを題材にいろんな絵を描いている。上の写真がその一つで、まあ、これは、実際の電柱、電線ではないから、面白いことは面白いのだけど……。

今まで「電線絵画展」なるものを開こうなんて、突飛なことを考えた人はまずいなかっただろう。その点、練馬区立美術館には敬意を表したい。そして、同美術館が電柱や電線の地中化を否定しているわけでもない。展覧会のチラシの開催趣旨にはまず「街に縦横無尽に走る電線は美的景観を損ねるものと忌み嫌われ、誰しもが地中化されスッキリと見通しのよい青空広がる街並みに憧れを抱くことは否めません」と書かれている。

「しかし」と、この文は続く。「そうした雑然感は私たちにとっては幼いころから慣れ親しんだ故郷や都市の飾らない、そのままの風景であり、ノスタルジーと共に刻み込まれている景観でありましょう。……電線、電柱を通して、近代都市・東京を新たな視点で見つめなおします」

翻って、ロンドンやパリでは電柱、電線の地中化率は100%、ニューヨークも中心部のマンハッタンは100%だそうだ。「電柱、電線はアジアの風物」とも言われたりするが、香港は100%、シンガポール台北もそれに近いとのこと。僕は中国で結構長い間、日本語を教えていたけど、街に電柱や電線があるなんて、あまり感じなかった。それらに比べ日本では、地中化が最も進んでいる東京都23区ですら、その率は10%に満たない。

中国から日本に留学してきた教え子の女性から「日本は先進国で、技術もおカネもあるでしょうから、電柱と電線をなんとかしてもらえないでしょうか。醜悪で、もう我慢できません」と訴えられたこともある。彼女がいつか故郷で、日本の電柱、電線に「ノスタルジー」を感じてくれることなんて、あるのだろうか。

「1964東京五輪」と僕

今夏の東京五輪パラリンピック聖火リレーが3月25日、福島県から始まった。一方で、新型コロナウイルス感染症は緊急事態宣言の全面解除後、感染再拡大の兆しが顕著になっている。7月23日の五輪開会式まで続く聖火リレーはこの先どうなるの? そして、五輪・パラリンピックは? 政府高官は「もうやめることはできない」と言っているとかで、何やら「やけくそ」な感じ。先行きの明るくない「2020東京五輪」である。

そんな話を見聞きしていると、半世紀以上前の「1964東京五輪」のことがしきりに思い出されてくる。五輪自体が何かと明るかっただけではなくて、僕が希望通りに新聞記者になれたのも、ひとえに五輪のおかげだった。何やら「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話ではあるのだけど……五輪の前年の1963年、僕は大学を卒業し、朝日新聞社に就職した。僕の卒業がその前でも後でも、たった1年でもずれておれば、チャンスはなかったはずである。

僕は在学中、勉強には熱心ではなかった。高校時代の受験勉強でそれなりに疲れていたのだろう。僕の脳みそにはもはや勉強する「余裕」がなく、大学ではサッカー部に入って、練習に明け暮れていた。それでも、そろそろ就職のことを考えなければならない時期になった。さあ、どうするか。銀行、商社、メーカーなど企業のサラリーマンになるのは、どうも気が進まない。一応、法学部にいるので、弁護士とか法曹の道も魅力があるが、そのためにはまず司法試験に通らなければならない。だけど、法律の勉強はろくにしていない。

さて、どうしようかと思案投げ首しているうちに、「そうだ、新聞記者になろう」と思いついた。新聞は毎日、一応は読んでいたが、とりわけ立派な理由があっての新聞記者志願ではない。「新聞記者って、かっこいいよな」という、程度の低い学生だった。

法学部でのゼミは「政治史」だったか「政治学」だったか(ゼミの名前すらうろ覚えなんて、困ったものだが)に入っていた。担当の教授は新聞などによく登場する人だった。ある日の授業で、教授が言った。「君らの中で、朝日新聞の記者になりたいものはいないかな? 僕のゼミから何人か推薦してくれって、朝日から言ってきてるんだ」。えっ、そんなおいしい話って、あってもいいの? 当時、朝日新聞社は学生たちに非常に人気があり、就職希望先のランキングではいつも10位以内、それも中ほどに入っていたはずだ。僕がまともに入社試験を受けても、合格する可能性はゼロに近いだろう。

こんなうまい話を逃す手はない。すぐに手を挙げた。ほかにも挙手した仲間が何人かいた。教授は「じゃあ、君たちの名前を伝えておく。そのうちに、面接の連絡があるだろう」。最初の面接は編集局の幹部だった。これには合格したのだろう、しばらくして「論説主幹」が最終的に面接するとの連絡がきた。彼は世間でもよく知られた論客である。

この面接が大変だった。彼が「何々についての君の意見は?」と次々に質問を繰り出してくるのだが、僕はほとんど答えられない。まさにしどろもどろ、面接の途中で僕は覚悟を決めた。「ああ、やっぱりだめだ。ろくに勉強もしてこなかった僕の責任だ。棚から牡丹餅(ぼたもち)なんて、うまい話があるわけないんだ」

面接が終わり、いささか意気消沈している僕に向かって彼は言った。「君はものごとをあまり深くは考えないようだな。新聞記者に向いているよ」。本音なのか、皮肉なのか。それは別として、僕は確信した。「あっ、面接に合格したんだ」。もし、僕が丁々発止と彼とやりあっていたら、「小生意気な奴だ」と、案外不合格になっていたかもしれない。

なんで、朝日新聞社は僕なんかにまで手を伸ばしてきたのか。あとで聞いたことだけど、日本での五輪はもちろん初めてのことである。取材記者がどれだけ必要なのか、分からないけど、とにかく1年前には採用人数を大幅に増やしておこう。それも、ある程度の人数は早めに確保しておきたい。何しろ、当時は日本経済の高度成長の真っ最中で、就職戦線はもっぱらの売り手市場である。うっかりしていたら、ほかに取られてしまう。そんなことだったようだ。

かくして1963年、ゼミ仲間の何人かと一緒に朝日新聞社に入り、僕は九州の支局に赴いた。そして、翌64年には東京本社から「五輪のサッカー取材で東京に長期出張するように」との通知が来た。入社だけでも幸運だったのに、五輪が取材できるなんて、「ボーナス」がついてきたようなもの。学生時代、サッカー部にいたおかげだ。

その後、同僚や後輩から「岩城さんは裏口入社だったんですってね」と聞かれることが何回かあった。僕は一蹴した。「裏口入社っていうのはね、私を入社させてくださいと、自分から頼んで入れてもらうことだよね。場合によっては、カネを包む。僕らは逆で、会社から『ぜひ来てください』と頼まれたから、入社してあげただけなんだよ。正面玄関から入ってきているんだ」。そうは言うものの、正面は正面でも、ちょっと横の入り口から入ってきたような気もしていたが、この新聞社で機嫌よく定年まで勤め上げた。

いわゆる就職氷河期に遭遇したり、今またコロナ禍による就職難に直面したりの若者たちに対しては、まことに申し訳ない限りの「与太話」を書いてしまった。だけど、僕にとっては、まさに足を向けては寝られない、大変にありがたい「1964東京五輪」だった。

「ただ酒」考

「ただ酒」にからむニュースが新聞やテレビをにぎわせている。これまでのところ、主役は総務省の官僚たちで、かなり高そうな店で、「利害関係者」にご馳走になっている。なかでも、元総務官僚の内閣広報官が役所時代、1人で1回7万円超もの接待を受けた話は世間を驚かせた。この人は体調不良を理由に辞職したが、ご馳走に加えて、帰りに土産やタクシー券をもらうのも普通のようである。

そんなことを知って、もう40年ほど前の古い話(以前、どこかにちらりと書いたかもしれないのだけど)を思い出した。当時、僕は新聞社の経済記者だった。夜、割合に早めに仕事を切り上げて、東京・銀座から地下鉄に乗ったら、某中央官庁に勤めている高校時代の先輩に出くわした。いわゆるキャリアの官僚で、エリートの1人である。「久しぶりですね。軽くどうですか」と僕が誘い、池袋の居酒屋に入った。

1時間ほど飲んでの帰り際、僕が勘定を済ませた。そして、店を出ると、先輩が小声で「おい、俺も半分、払わないといけないのかい?」とつぶやく。「いいですよ、僕が誘ったのだから、僕が払うのが当然ですよ」と答えたが、先輩の言い方にちょっと興味をそそられ、歩きながら話を続けた。気安い後輩相手だからだろう、先輩は正直に話してくれたようだ。

「ふだん飲む時はどんな具合なんですか?」
「うん、業者が今度いかがですか、と言って寄ってくるわな。そしたら、まあ、あまり気乗りしないふりをして、接待にあずかるという感じだな」
「自分ではまったくカネを払わないんですか」
「割り勘で飲むくらいなら、家に帰って寝ていたほうがいいな」

最近の報道では、接待を受けた官僚たちが「会費」として5千円とか1万円を相手先に渡したという話も、ときどき出てくる。でも、こうした会食で実際に掛かる費用は1人3万円、4万円、5万円……とか。5千円や1万円を払ったところで、「割り勘」だったとは、とても言えない。やはり古い話を思い出した。

経済記者としていろんな企業を回っていると、企業のトップから「一緒にゴルフをしましょう」なんてお誘いが時折、記者クラブあてに舞い込んでくる。僕はゴルフをしたことがなかったので、そんなお誘いには乗れなかったのだけど、ゴルフに付き合う各社の記者を見ていると、「会費」として何千円かを払っている。でも、企業のお招きでゴルフに行って、費用がその程度で済むわけがない。ゴルフ代、飲食代その他を考えると、その何倍も掛かっているはずだ。これじゃ、ただ酒を飲んでいるのと大きな違いはない。

実は僕もゴルフを始めたかった。ゴルフを通じて取材先と親しくなっておけば、何かと役に立つだろう。だけど、さっきのようなことを考えると、二の足を踏む。また、ゴルフをやれることが取材先に分かれば、お誘いを断りにくくもなる。そんなことを考えて、記者時代ゴルフとは無縁で過ごした。学生時代の友人たちは今、誘い合ってゴルフを楽しんでいるようだが、今さら始める気にもならない。ゴルフに関しては、僕はずっと「蚊帳の外」である。このように書いてくると、いかにも僕はただ酒は一切お断りで過ごしてきたみたいだけど、そういうわけでもない。

話は少し変わるが、日本共産党は最近の国会で、内閣官房機密費のうち、官房長官が自由に使え、領収書も何も要らない、したがって使い道も全く分からない「政策推進費」を問題にしている。菅義偉首相は2822日間の官房長官在任中、総額86億8000万円、1日当たり平均307万円を使ってきた。このような高額な使途不明金の支出を許しておいていいのか、というのが共産党の主張である。

共産党の言い分はもっともだが、それはそれとして、この話は僕にもっと古い話を思い出させた。僕は経済記者が長かったのだが、20歳代の終わりには一時期、政治記者もやり、首相官邸記者クラブに詰めていた。ある時、確か忘年会だったと思うが、官房長官が各社の記者を招いた宴席があった。高級料亭の広い座敷には、芸妓(芸者)さんが10人はいただろうか。酒食を一応、終えてからは、僕の人生で初めて、芸妓さんとの「お座敷遊び」に、手取り足取りされながら、興じたものだった。

完全なただ酒である。あのカネはどこから出ていたのだろうか。官房長官が自腹を切るなんてことは考えられない。内閣官房の機密費、うち官房長官が自由に使える「政策推進費」から出ていたのではないか。当時、このただ酒に罪悪感は感じなかったと思うが、50年以上たっても思い出すのは、いささかの良心の呵責があったのかもしれない。

「ただ酒を飲むな」の言い出しっぺは京都大学総長を務めた滝川幸辰氏(1891~1962)だろう。彼は1954年3月、卒業式での告示で、自主性を持て、信念を持て、出世主義者となるな、と述べた後、「第四として最後に」として、次のように話している。

「私は諸君に対して、他人からただの酒をご馳走になることを、自ら戒めることを希望します。今、政治家の間で疑獄事件が起こっていることは、諸君もご承知のことと思いますが、疑獄事件の原因は、すべてただの酒をご馳走になる習慣から起こるといってよろしい。酒の好きな人が酒を飲むのはよろしい。しかしそれは、自分の銭で飲むことが絶対の条件であります」

滝川氏の言う疑獄事件とは当時、「計画造船」をめぐり政官財界を巻き込んで起きた贈収賄事件のことだ 。僕が新聞で滝川氏の「ただ酒を飲むな」を読んだ時は中学生で、「大学の総長もつまらないことを言うもんだな」と思った。これが「名言」「箴言」であることに気付くまでには、まだ年数が必要だった。そして、滝川氏の言葉からすでに60年余になるが、「ただ酒」が続く限り、この言葉はまだまだ名言、箴言であり続けそうである。

階段上りにも奮闘中

昨年の夏の終わりに「腰部脊柱管狭窄症」の手術をしてから、「『速歩き』を目指して奮闘中」とか「『歩き』から『走り』も奮闘中」とかいったブログを書いてきた。それはそれで嘘ではないのだが、その折に気付いたのは、駅などの階段を上るのがいささか苦痛になっていることだった。手術の前までは、足のしびれを言い訳にして、駅などでは階段を使わず、もっぱらエスカレーターかエレベーターに頼ってきた。だけど、手術も無事に終わったのだから、そういうことではよろしくない。原則、エスカレーターなぞは使わず、階段は自分の足で上ろう。そう決心した。

ところが、40段から50段ほどある駅の階段を上ろうとすると、途中でひと息つきたくなる。幸い、息そのものは切れないのだけど、膝のあたりがちょっとがくがくしてくる。階段の一番上まで行った後は、しばらく立ち止まって休みたくなる。これは由々しき事態である。かつては(と言っても、20歳代の頃だけど)階段なんてものは、3階だろうと、4階だろうと、2段ずつ駆け上がるものと思っていた。最近だと、数年前に台北でゆっくりゆっくりだけど、1000段の山を休みなしで上っている。なのに、なんとも情けないことになっている。

ふと、40年以上も前、僕がまだ30歳代の頃に、70歳過ぎのある経済人から聞いた話を思い出した。大企業の社長、会長を務めた人である。しんみりとした口調で話しかけてきた。「いやあ、僕も60歳代の頃は年を取ったなんて、全く思わなかった。元気いっぱいだった。だけど、70歳の古希になると、ガクッときたよ。すぐに疲れる。駄目だねえ」。僕は70歳代でも年を取ったとは思わなかったけど、さすがに80歳の傘寿になると、ガクッとくるのだろうか。

でも、負けるわけにはいかない。とりあえず毎日、階段をどんどん上がってみよう。とは言っても、コロナ禍もあって、電車で出掛けることも稀になった昨今は、40段や50段の階段に出くわすことも少ない。どうするか。

そうだ、最近は暇に飽かせて自宅近くの川の土手をよく散歩しているのだけど、もう1段上の土手との間に階段がいくつもある。段数はせいぜい15段ほどしかないが、何回も上り下りすればいいことだ。かくして、散歩のたびに、川の土手にある階段のお世話になることにした。それだけではなく、よく行くスーパーマーケットの近くにある歩道橋も見逃さない。スーパーへの行き帰りには必ず上り下りしている。階段を見かけたら、まさに「親の仇」のように、攻めかかっている。

ポケットに入れているスマホ歩数計では、階段を3メートルほど上がると、「1階分」と計算される。そして、あちこちの階段を上っていると、それが集計されて「15階」や「20階」という表示が出てくる。ちりも積もれば、ではないけれど、これを見るのも結構楽しい。

ところで、階段上りのほかに何かできることはないか。そうだ、「筋トレの王道」とも言われるスクワットがあった。これもやってみよう。で、毎日、10回ずつのスクワットを3度、繰り返すことにした。新聞で、膝の裏を伸ばす「きくち体操」というのを見掛けたので、これもやっている。どちらもあまり楽しくはないけど、やった日には、手帳の日付のところに「✓」を入れている。ちなみに、きくち体操というのは86歳の菊池和子さんが提唱しているものだ。

ほかにも、やることがないだろうか。そうだ、両足に「重り」を付けて歩くのを再開しよう。実は、会社のサッカー部でまだ現役でボールを蹴っていた50歳代の頃、両足に1キロずつの重りを巻いて歩いていた。いつの間にかやめてしまったが、当時のものが残っているはずだ。探し出してきて、下の写真のように、再登場をお願いした。ただし、実際にこれを付けて歩く時は、重りをトレパンの中に入れて、目立たないようにしている。毎日24時間、これを付けているわけではないが、付けた日にはこれも手帳に✓を付けている。
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かくして1カ月、2カ月……効果がないことはないようだ。50段くらいの階段なら、割合にさっさと上がっていける。ちょっと前までは、長そうな階段を前にすると、足がすくんだものだけど、今は逆に「よし、行くぞ」という気持ちが湧いてくるのである。