中国の日本語教育は「崩壊」に近い!?

わが家の本棚を整理していたら(日本語にすると)「ハルビン理工大学外国語学院日本語科 成立30周年 1985-2015」と称したアルバムが出てきた。

 

僕は今世紀の初頭、中国の最北端黒竜江省ハルビン市にあるこの大学でボランティアの日本語教師をしていた。5年間、これをやった後、今度は中国最南端の別の大学に移ったりしていたが、さっきのアルバムができた2015年には日本に戻っていた。そこへ、アゴアシ付きで、日本語科成立30周年記念式典への招待状が舞い込んだ。このアルバムはその折に、ハルビンで頂戴したものだ。

アルバムには毎年の卒業生と教師との記念写真が並んでいる。例えば、上の写真は2004年のもので、最前列に教師、2列目以降に卒業生が並んでいる。女性が多く、男女合わせて総勢100人ほど。まあ、盛況である。ちなみに、最前列の向かって右から3人目が僕、その右隣が僕の大学時代の友人で、元商社マン。僕が帰国した折に「中国での日本語教師は面白いぞ」と話すと、「俺も行く」と僕の2年遅れでやってきた。当時、日本人の教師は僕ら老人2人のほかに、30歳ほど若い男女の教師もいた。元焼き鳥屋の親父という人もいた。総勢4~5人で、自分で言うのもなんだけど、多士済々だった。

 

僕がこの大学を去った後、学生の数はさらに増え、アルバムの写真で数えると、200人を超えている。1枚の写真では全員が収まらなくなり、クラスごとに記念撮影したりしている。日本語、そして日本が光り輝いていた時代だったのだろう。

 

アルバムを眺めながら、そんな懐かしい思い出にふけっていたのだが、このところ、現地から聞かされる話に思いが飛ぶと、気持ちは暗転した。僕の教え子の中には母校の日本語科の教師になった者もいる。そんな女性から2年ほど前だったか、「日本人の教師がとうとう1人もいなくなりました」とのメールが舞い込んだ。日本語科として初めての事態のようだ。あちこちで募集しているが、来てもらえないとのこと。「日本人の先生がいないと、学生の会話やヒアリングの能力はなかなか伸びません」と、彼女は嘆いていた。確かに、日本語に限らず、大学の外国語の学科でネイティブの教師がいないなんて、異常事態である。日本語の1級試験の合格率も落ちてきたそうだ。

 

びっくりした僕は、自分なりに日本のあちこちに声を掛けてみたが、今のところは力及ばず、成果はないみたい。さて、今年はどうなのか。中国では日本と違って、9月から新しい学年が始まっている。

 

さっきの彼女にメールで尋ねてみると、やはり日本人教師ゼロで新学年がスタートした。大学の上の方の人たちも日本人教師の採用は諦めているみたいだと言う。でも、せっかく、大学の日本語科に入ったのに、周りが中国人教師ばかりでは、学生たちもちょっとは力抜けするのではないか。老いぼれでもいい、僕のような連中がキャンパスをうろうろしていた方が、まだましではないだろうか。一方、日本語科の新1年生の数は50人。僕がいた頃に比べれば半減だが、これでも、いないよりはましだ。日本語科の学生募集そのものをやめる大学が続々だと言う。

 

やはり、日中・中日関係の悪化が背景にあるようだ。近年、日本企業は次々に中国から撤退していく。当然、日本語科を出ても就職先が減っていく。日本に行けば、まだ就職先はあるが、今度は親が「放射能汚染水」の日本へ子供をやりたがらないとか。放射能汚染水なんて言葉は、我々はとっくに忘れているだろうが、中国ではまだまだ生きているのだ。

 

中国における日本語教育は、事態が悪い方に、悪い方にと動いて行っている。さっきもちょっと書いたが、僕は60歳代から70歳代にかけての一時期、ハルビンや桂林、南寧で、日本語を教えることにそれなりの情熱を注いでいた。ハルビンと桂林では大学で、その後、同じ桂林と南寧では、教え子の力を借りてつくった塾で教えていた。塾は「東方語言塾」と言い、僕にはできないが、韓国語と、日本人相手に中国語も教えていた。いつか、中国、朝鮮半島、日本が自由に行き来できるようになる日に備えて、といった気持ちだった。

 

それだけに、中国での日本語教育の現状を聞くと、寂しくてしようがない。僕はいま80歳代半ばだが、まだまだ元気だ。何かできることはないだろうか。寂しさとは逆に、さて、何をしてやろうか、腕が少しムズムズもしてくるのである。

「有識者」の「広告出演」に異議あり

 のっけから、大きな枕を抱えたご老体たちの登場で恐縮だが、下の写真は某日の新聞に挟まれていた、ある枕のチラシ広告である。お三方は紹介するまでもない有名な人たちで、左から78歳で社会学者の上野千鶴子さん、88歳で解剖学者の養老孟司さん、94歳で評論家の樋口恵子さん。この枕のそれぞれの愛用歴は上野さん15年、養老さん17年、樋口さん10年とある。

さらに、お一人ずつのコメントがついていて、上野さんは「この枕に替えたら、ずっと悩みのタネだった朝起きたときの首のコリが気にならなくなりました。驚きましたね」。養老さんは「枕の高さが合わないとストレスで寝つきが悪くなる。この枕は昔から後頭部がしっかり休まるので、あっという間に眠りに落ちます」。また、落合さんは「90代になると満身創痍ならぬ満身疼痛になり、寝つけなくなりました。でもこの枕は頭をのせると力がスーッと抜けて、5分もたたずにムニャムニャって。寝つきの良さが戻ってきました」。皆さん、一様に広告の枕を絶賛している。まるで「魔法の枕」みたいである。

 

僕はこのチラシ広告を見て、ちょっと違和感を覚えた。お三方がどんな枕を使おうと、また、それを「こいつは素晴らしい」「安眠できるわ」などと友人や知り合いに吹聴されようと、ご自由である。でも、この広告に出るということは、お三方に対しておカネが動いているはずである。そのことに対して「どうかな?」と思ってしまう。

 

もし、おカネが動いていないなら、そして、お三方が人々の安眠を願う気持ちから無料で出演されたのなら、謝罪するけれど、そんなことはまずはないはずだ。それに、年齢だけは85歳でかつ無名の僕には、こんな広告への出演依頼はまず考えられない。従って、おカネももらえない。「違和感」には、そうした「嫉妬心」が働いているのかもしれない。 

もちろん、おカネをもらって、広告に出ることがすべて悪い、というわけでは決してない。例えば、MLBロサンゼルス・ドジャースの大谷翔平選手はテレビのいろんなCMに登場する。上の写真は「熱闘!おむすび選手権」とやらのテレビのCMである。選手権の中身は全く知らないけど、世間に害を与えるようなものでなければ、広告に出ておカネを稼いでも、一向に構わない。つまり、大谷選手は「野球」という「芸」を磨いてきた人である。言わば「芸人」である。「芸能」「芸能人」と呼んでもいい。その芸・芸能を売っても、どこも悪くない。広告を見ているほうも、大谷選手が広告主に「魂」を売り渡しているなぞとは、全く思わない。お、あちこちで稼いでいらっしゃるな、と感心するくらいだろう。

 

決して、芸人、芸能人を見下しているわけではないのだけど、上野千鶴子、養老孟司、樋口恵子の皆さんは芸人、芸能人ではない。それぞれ著書も多いし、あちこちで「卓見」を述べていらっしゃる。まあ「有識者」「知識人」と言ったところだろうか。そんな方たちがカネ欲しさ(?)に枕を抱えてニッコリなんて、僕はいまひとつ感心しない。

 

芸人、芸能人の方々に対しても、似たような違和感を覚えたことがあった。もう4年ほど前だったか、この世界の御大とも呼ぶべき吉永小百合、タモリのご両人がそれぞれ別のビールのテレビCMに同じ頃、出ていたことがあった。

 

このCMの中で、吉永さんはビールの入ったグラスを片手に、「ビールって、こんなにおいしいものなんですね」とおっしゃる。ご存じかどうか、彼女は酒豪で知られている。カマトトか!? 一方のタモリさんは、用意されたグラスのビールを口にして、ひとこと「うまい」。やめて頂戴!! お二人は当時、喜寿の頃だったか。そんなお年になって、おカネ欲しさかどうかは存じませんが、ビールがおいしいとか、うまいとか、僕は大いに衝撃を受けて 当時、そのことをこのブログに書いている。 

 

おカネは誰でも欲しい。僕のこの駄文ブログ「なんのこっちゃ」もかつては朝日新聞の電子版とやらに掲載され、確か1本1万円の原稿料を貰っていた。ありがたかったが、そのうちに紙面替えということで掲載打ち切りとなった。今はどこからも1円も入ってこない。

 

つまり、いつまでもカネを稼げるわけではない。その意味で、若い大谷翔平選手なんかは来るものは拒まずで、どんどん受け入れておいた方がいいかもしれない。だけど、上野千鶴子さん、養老孟司さん、樋口千恵子さん、それに、吉永小百合さん、タモリさんあたりは、失礼ながら「おカネをもらえるの? じゃあ、OK」と飛びつかずに、「この広告に出てもいいのかしら?」と、少しは考えてくださっても、いいのではないだろうか。

紀元2600年そして2700年

 皇室典範の改正がらみでこのところ、「2600年」という数字をちょくちょく見聞きする。例えば「わが皇室は2600年以上にわたって連綿と続き……」といった文脈に登場する。「男系男子」の天皇にこだわる人たちの発言に目立つ。もちろん、2600年間の前半のある部分は神話の世界なのだけど、我が国初代の天皇とされる神武天皇の即位以来、今日まで2600年以上が経っているというお話である。

 

そして、理由は少し後で書くけど、「紀元2600年」は僕にとって、なじみのある数字でもある。

 

紀元2600年という節目の年は昭和で言えば15年、西暦で言えば1940年である。その年にはこれを祝う様々な催しが行われた。国民歌「紀元二千六百年」も制定された。「金鵄(きんし)輝く 日本の 栄えある光 身に受けて いまこそ祝へ この朝(あした) 紀元は二千六百年 ああ一億の胸はなる」と、小学生たち、それも意味も分からないまま、低学年までが暗唱させられた。「金鵄」とは金色のトビ(鵄)のこと。神武天皇が日向(宮崎)から瀬戸内海を経て大和(奈良)に東征した折、弓の先に金鵄がとまり、その光で敵の目をくらませたとの伝説がある。

 

一方で、この2600年には我が国では初めて「東京オリンピック」や「万国博覧会」という平和の催しも開かれる予定で、日本にとって、世界に向けての華々しい年になるはずだった。だが、これらは日中戦争の激化などからとっくに中止になっていた。

 

実は、僕はこの年の生まれである。両親は記念すべき年に生まれた息子のことをどう思っただろうか。僕の名前は「元(ハジム)」だが、これは紀元2600年を祝福した名前ではないだろうか。そう思い、母が遺した育児日記を引っ張り出してきた。「誕生」というページを開くと、縦書きで「紀元二六〇〇年ノ秋 昭和十五年十一月十九日」とある。紀元2600年に生まれたことを喜ぶ気配は全くなく、素っ気ない。

 

次いで、命名者は「お父ちゃん」、そして「名の意味」には「創世記 第一章 元始に神 天地を創造たまへり」とある。「元始」には「ハジメ」、「創造」には「ツクリ」のルビが振ってあるが、なぜ創世記なのかなどの説明は一切ない。ましてや、両親がキリスト教に関心を持っていたなんて、聞いたこともなかった。当時の軍国主義、そして2600年、2600年と騒ぐ世間に対する不満から、無関係の「創世記」を持ち出したのだろうか?

 

余談ながら、僕のひとつの自慢?は「今年は紀元何年?」と尋ねられた場合、普段は意識することが全くないのに、間髪を入れずに、例えば「2686年」と答えられることだ。秘訣も何もない。2600年そのものが僕の生まれ年だから、それに僕の年齢を足すだけでいい。これが普通の人だと、西暦に660年を足すという作業が入ってくる。

 

もうひとつ余談だけど、母の育児日記は市販の本に書いてあるが、この本のもともとのタイトルは「ベビーブック」だ。戦中、英語や、英語由来のカタカナ語は「敵性語」として排斥されるのだが、紀元2600年時点ではまだそこまで行っていなかったらしい。しかし、ベビーブックの中にある挿絵には、剣をかざし、鉄砲を担いだ男の子や女の子が登場する(写真下)。僕ら子供たちもすでに兵隊として期待されていたのだ。 

 

僕が生まれてほぼ1年後、日本は「真珠湾攻撃」に踏み切り、奈落の底へと突っ込んでいく。思えば、日中戦争の最中とは言え、知恵と勇気さえあれば、まだ引き返すことができたはずだ。紀元2600年は平和と戦争の「分水嶺」だったような気がする。

 

そして、紀元2700年は間近である。あと13年余りしかないが、今のところ平和なこの日本にも、何か戦争の匂いが漂ってきている。

 

例えば、日本の「国是」とされてきた核兵器を「持たず」「作らず」「持ち込ませず」の「非核三原則」。佐藤栄作氏以来、歴代の首相はこれを「堅持していく」と言い続けてきた。だが、高市早苗首相は「堅持している」と言いつつも、これからも「堅持していく」とは絶対に言わない。さらには、非核三原則を国是ではなく「政策上の方針」だと言う。非核三原則から「おさらばしたい」気持ちがありありである。推測すると、まずは「持ち込ませず」をやめる、次いでは……という気持ちなのだろう。官邸の誰かが匿名で核武装論さえ唱えているが、首相がそれに注意したとの話も聞かない。

 

紀元2700年、僕が満100歳になるおめでたい(?)年が再び平和と戦争の分水嶺にならないよう、祈るばかりである。いや、祈るだけではなく、この駄文ブログなどで、影響力は弱くても、世間の片隅でつぶやいていきたい。

首相の「0~3時間睡眠」は「嘘」で日本の恥!?

高市早苗首相は3連休最後の日の7月20日夜、自身のX(旧ツイッター)で「久々に5時間も睡眠を取れた」としたうえで、首相に就任後は「0時間~3時間睡眠が常態化」していると投稿した。その多忙な理由については「深夜時間帯は明け方まで官邸から持ち帰りの資料読みや国会答弁資料読みに追われます」と説明。さらに「風呂掃除、入浴、夕食、夕食後の洗い物、洗濯、簡単な掃除まででプライベートな時間は精一杯」とも書いた。

 

「0~3時間睡眠」とのあまり考えられない投稿に様々な反応が相次いだ。好意的な「ちゃんと休みを取っていただきたい」から「難しい重要な政策判断をこなせるのか、心配になる」「周囲に21時間働けるかと強要している」などなどである。

 

一方、僕がまず感じたのは「この女性、また嘘をついているな」である。「嘘」あるいは「嘘もどき」でないなら、謝るしかないけど、「0~3時間睡眠」の「常態化」がどういうことか、まず想像してみてほしい。例えば、ある日に徹夜したとしよう。その後の日は多めに3時間、睡眠をとる。そして翌日は1時間、翌々日は2時間の睡眠。その次の日はまた徹夜……4~5日なら、我慢できないこともないだろう。だが、高市さんの場合は昨年の首相就任以来、ほぼ9カ月間、これが常態化しているとか。信じられるだろうか?

 

また、彼女の場合、住まいは「公邸」で、勤務先は「官邸」である。新聞の「首相動静」欄を見ると、公邸から官邸までは、車で行くのか、徒歩で行くのかは知らないけど、所要時間1分である。東京あたりの勤め人は普通、片道1時間や1時間半を掛けて勤務先に出かけている。首相の仕事はまあ忙しいだろうけど、多分、日本で一番恵まれた「通勤環境」にいる人が、なぜ眠る時間もないのか。工夫が足りない、知恵がないと思ってしまう。

 

高市首相の言うことに「?」がつくのは、これまでにも真偽の疑わしい発言がちょくちょくあったからだ。以前にもこのブログで少し書いたが、例えば「シカ発言」。昨年秋の自民党総裁選の論戦で、自分を「奈良の女だ。大和の国で育った」としたうえで「奈良公園に住んでいるシカを足で蹴り上げる人がいる。外国から観光に来て、痛めつけようとする人がいるとすれば、何かが行き過ぎている。外国人と思いやりを持って生きるにはどうすればいいか、ゼロベースで考えるつもりだ」とぶち上げた。

 

だが、奈良県の担当者は「殴る蹴るといった暴行は確認されていない」と真っ向から否定した。ところが、根拠を聞かれた高市首相は「自分なりに確認した」と、あいまいにしか答えない。ずっと後になって「私自身、英語圏の人に注意した」と言い出したが、もしそうなら、なぜもっと早く言わなかったのか。また、実際にシカを蹴り上げている外国人に直面したのなら、なぜ関係機関に通報しなかったのか。疑問だらけである。

 

同じく自民党総裁選で「警察でも、通訳の手配が間に合わないから、(外国人を)逮捕はしても勾留期限が来て不起訴にせざるを得ないとか、よく聞きます」とも発言したが、警察庁の担当者からは「通訳人が確保できずに取り調べに支障を来たした事実はない」と否定されている。「よく聞きます」とは根拠を示さない、大変にずるい言い方である。

 

以上ふたつの嘘あるいは嘘もどきの狙いは何だろうか。それは排外思想をあおり、保守層の人たちの支持を得ることではないか。そして、これらの発信先は国内だったが、日本の首相の「0~3時間睡眠」は世界に向けて発信された。狙いが分からないのだけど、どんな反応があるだろうか。

 

朝日新聞によると、英国のインディペンデント紙は「敬愛するサッチャー元首相に自らを重ねようとする新たな試みかもしれない」と伝えた。サッチャー氏は、本当かどうかは別として、1日4時間しか眠らなかったと言われており、別のメディアも「日本の首相、サッチャー氏より短い睡眠を誇示」との見出しで報じたとか。あんた、馬鹿じゃないの?と茶化している感じである。

 

高市首相の投稿に対する世界の大方の反応は、僕の想像だけど、「日本の首相って、この程度の人間なの? 簡単な時間の管理さえできない。家事が大変なら、人を雇えばいいじゃない? その程度のおカネはあるだろ?」といったところか。あるいは「入浴が大変なら、わざわざ湯船につからず、シャワ-だけでいいじゃないの? 風呂掃除も簡単になるし…」と言われるかも? 残念ながら、日本にとって、あまり名誉なことではないけど、彼女はそんなことには無頓着なようである。

「サッカー」が与えてくれた人生の「彩り」

サッカーのワールドカップが佳境に入っている。僕の人生もいささかサッカーに関係があった。サッカーなしでは考えられないこれまでの人生でもあった。ワールドカップに悪乗りするようだが、それらを書いてみたくなった。

 

実はもう昔も昔、1960年代前半のことだが、僕は京都大学法学部の学生時代、サッカー部の選手だった。少し前に創部百周年を迎えた歴史のある部で、正式には「蹴球部」と言う。その我が母校は今、関西の大学リーグの「3部」にいるが、当時は堂々と「1部」にいた。優勝には遠かったけれど、ほどほどの成績だった。1964年の東京オリンピックの前、日本のサッカーを指導し、「日本サッカーの父」と呼ばれているドイツ人のデットマール・クラマーさん(1925~2015)という方がいるが、彼が京都で大学生相手にやった合宿に参加したこともある。朝日新聞の運動面(大阪版)の戦評記事に1回だけだが、何かのついでに、ちらりと僕の名前が出たこともある。

 

――と書くと、今様に言えば、Jリーガーを目指せる選手みたいだけど、とんでもない。僕は大学に入るまでサッカーなんてやったことがなかった。ボールの蹴り方さえ知らなかった。高校で何か別の運動部にも入っていなかった。でも、体を動かすことは好きだった。

 

そんなことから、運よく現役で大学に入った後は、何かスポーツを徹底的にやりたかった。一方で、僕は強度の近視に加え不正乱視で,目がよくない。野球やテニスのボールは僕には小さすぎる。運動神経もよくない。小学生の頃、鉄棒の逆上がりができるようになったのは確か、僕がクラスで最後だった。じゃあ、ボールが大きめのスポーツにしようか。ラグビーかサッカーだな。で、ラグビーはやや泥臭いが、サッカーはスマートな感じがする。では、サッカーにするか。ボールをちゃんと蹴れなくても、どっかに飛んで行ってくれるだろう。そんないい加減な考えで選んだスポーツだった。

 

サッカー部に入ってびっくりしたのは、僕とは全く違って、高校までちゃんとサッカーをやりながら、現役で大学に入ってきた連中が結構いることだった。彼らの何人かは1回生からいきなりレギュラー(正選手)になっていた。仰ぎ見るような存在だった。

 

一方の僕は、ボールの蹴り方を先輩に基本から教えてもらっていた。例えば「右足で蹴る場合は、左足をここにおいて、それから右足の甲をこのように当て…」といった具合。そんな僕でも、とにかくがむしゃらにやっていたおかげか、3回生になると、レギュラーが故障した折には、代わりに試合に出してもらえるようになった。4回生では「不動のレギュラー」になれた。下の写真は、法学部の卒業アルバムに載った同期の仲間やコーチとのもの。向かって左から2番目が僕で、今の無様な体型に比べれば、まあ精悍ではある。

 

ポジションは当時の言い方だと、右のフルバック。攻めに行くことはまずない。もっぱらの守り役で、今と違って、その頃は優秀な選手が務めるポジションではなかったように思う。事実、僕なんか、相手からボールが奪えなくても、相手の足そのものを蹴って止めてしまえばいいや、なんてことまで考えていた。大学を出て朝日新聞社に入り、大阪本社で行われた入社式の後、ふと思いついて、運動部のサッカー担当記者のところに挨拶に行った。僕が自己紹介すると、「ポジションはどこだった?」と聞かれた。答えると、「ああ、あの荒っぽい奴か」と言われてしまった。覚えてくれてはいたようだった。

 

新聞社で九州にいた5年間はプレーからは遠ざかっていたが、入社2年目の1964年には東京オリンピックがあり、僕は大学でサッカーをやっていたというので、東京本社のサッカー担当チームに招かれた。楽しい出張だった。1日に1試合くらい取材するだけで、あとは誰かと飲んでいた。

 

九州での5年間が過ぎ、東京本社に異動してからは(本業の記者稼業をやりながら)会社のサッカーチームに入り、久しぶりにプレーを再開した。毎週というほどではないが、春と秋、社会人リーグでは結構、試合があった。ただ、普段はほとんどトレーニングをしていないので、試合の前日には自宅前で縄跳びをしたりした。毎年夏には長野県の霧ヶ峰にある会社の寮で合宿をした。朝日新聞社のチームではずっと、僕は「不動のレギュラー」だった。サッカーは生活の一部になっていた。

 

50歳代の中頃には別の社会人チームに誘われて、同年代でチームを組んでスペインとイタリアに遠征した。少し後にはカナダにも遠征した。ただ、欧米には50歳代になってもボールを蹴る連中はあまりいないようだった。相手チームはかなり若く、戦績そのものは芳しくはなかったが、得難く、かつ楽しい遠征だった。

 

かくして僕も朝日新聞社で60歳の定年退職の日を迎えた。そのまま日本にいれば、サッカーはまだまだ続けられた。だが、僕はサッカーとは当面、おさらばして、中国は黒竜江省ハルビンの某大学に語学留学することにした。準備万端、整えて、出発の少し前、某チームとの親善試合に臨んだ。

 

この駄文のタイトルに、サッカーが与えてくれた人生の彩り、とか書いたが、この試合での「彩り」はいささか強烈だった。試合中、至近距離から相手が蹴ったボールが僕の右目を直撃した。目の前に突然、灰色のすだれが下りたような感じだった。網膜剥離である。

 

中国留学はいったん白紙に戻した。留学用に残していた費用も底をついてきた。どうしようか。目はなんとかよくなってきた。当時、付き合っていた中国人の若者の知恵も借りた。そして、留学ではなく、日本語のボランティアの教師をやる、その代わり住居は大学が提供し、光熱費も大学が持つ、その間に留学生に交じって、タダで中国語も勉強する(もっとも、中国語の授業と、僕がやる日本語の授業がともに午前中なので、中国語の勉強はあまりやれなかったが)ということに落ち着いた。一石二鳥、三鳥のような話である。

 

結局、この話をOKしてくれたハルビンの別の大学には5年間もいた。単なる留学よりもずっと楽しかった。「サッカー」は人生のあちこちで役に立ってくれるのである。

究極!?の「認知症予防策」

「襲」という字を書こうとした。ところが、左上の「立」と「月」は書けたけど、右上の奴が思い出せない。さっそく辞書を引いた。また「声」という字を書こうとしたが、上の部分は書けたものの、下の部分が思い出せない。エッ、これほど簡単な字が…と思いながら、すぐに辞書を引いた。余談ながら、声の古い字は「聲」である。昔の人たちはよくもこんな難しい字を書いていたなあ、と感心してしまった。

 

以上は友人に手書きではがきを書いていて経験したことだが、僕にもやはり「認知症」の兆しがあるのかなあ、と心配になってしまう。そして、ふと思いついた。この「なんのこっちゃ」は普通、パソコンに向かって書き始めているが、まず紙片に手で書いて、あとでパソコンに打ち込んではどうだろうか。手間はそれほど変わらないし、何よりも、忘れかけた漢字をその都度思い出せる。認知症の予防にもなるのではないか。早速、今回から「まずは手書き」を始めている。

 

話はちょっとそれるが、先日の新聞に「AI(人工知能)の支配から脱出 新聞読もう」という大学生の投書が載っていた。なんでも、彼女は小さい頃は読書が好きで、文章を書くのも好きだった。なのに、最近はAIが頼りで、日記を始めようとしたが、文章が思い浮かばない。大学のレポートのアイデアも教授に出すメールもAIに聞いている。AIなしでは生きられない状況だ。これでは駄目だと、一人暮らしの身ながら、新聞を定期購読し始めた。そして、以上の投書はAIを使わずに書いているとのこと。こんな話を読むと、もっとも原始的ともいえる手書きが案外、認知症を防いでくれるのではないか。

 

思い返せば、この駄文ブログは始めてもう四半世紀にもなる。そして、数少ない!?読者の皆さんからは怒られるかもしれないが、僕の認知症予防のために続けているといった面も少なからずある。と言うのは、タイトルの前半の「桂林&南寧&・・・発」にあるように、中国で暮らしていたりすると、記事の材料はいくらでもある。四半世紀前に始めた時は「ハルビン発」だった。ハルビンの大学で5年ほどボランティアで教えていた。ネタの「宝庫」だった。今もたまに、懐かしい中国や、そして台湾に旅行すると、「おい、ネタがあふれているぞ」とうれしくなる。

 

ところが、日本に蟄居することが多くなると、ネタ探しがけっこう大変になる。いっそのこと、このブログをやめたら、随分と楽になるだろうな、とも思ったりもする。でも、そんなことをしたら、あとを待ち受けているのは認知症かな、と考え直す。読者の皆さんには申し訳ないが、クソ面白くもないネタを文章にしている次第である。

 

それはそれとして、認知症の予防策については、これまでも一度や二度は書いているぞと思い、過去のブログを探してみたら、あった、あった。

 

ひとつは3年ほど前(2023年5月15日付)、「わが認知症予防策」と称して書いている。それは毎夜、B5判ほどの紙片に翌日から5日間ほどの行動予定を書くという奴だ。行動予定はスーパーに行って何々を買うとか、本屋をのぞくとか、なんでもいい。そして、予定が「消化」されるたびに、蛍光ペンで上塗りしていく。実にくだらない話なのだけど、この「計画表」によって「気分が改まる」「未来が拓けていく感じがする」と自画自賛している。上の写真は当時の計画表で、今も同じようなものを毎日、作っている。

 

もうひとつは1年前(2025年7月1日付)の「脳トレを始めました」という奴だ。脳科学者の川島隆夫東北大教授に教えられたとかで、新聞の社説を毎日、音読するのが認知症予防に役立つ、800字程度を可能な限り早く読むと、記憶力の水準が約1カ月で50歳代から30歳代にまで上がるとか。そして、僕も始めたと書いている。ところが、これはいつまで続いたのだろうか? いずれにしろ、今はやっていない。僕もいい加減な人間である。反省して、これを早速、再開しよう。

 

そうだ、以上の三つ、つまり「まずは手書き」「毎日、行動計画表を作成」「新聞の社説を音読」を、なんのこっちゃ編集部(と言っても、部員は僕と娘の2人だけだが)推薦の「究極の三大認知症予防策」とさせていただこうかしら。ただし、申し訳ないことには今のところ、効果のほどは全く不明である。

気力に欠くるなかりしか

真っ昼間の飲み会とか、麻雀とか、あるいは病院の定期検診とか、何かの用がない僕の朝はゆっくりである。普通は10時ごろにやっと起きる。あと、朝日新聞の朝刊を持って2階の書斎(昔の子供部屋)に上がる。書斎のソファで新聞を読むのは1時間ほど、このあと、また1階に下りて、朝昼兼用の食事をとる。

 

ここまでは、まあいいのだけど、食事の後、また2階に戻り、今度はさっきまで新聞を読んでいたソファにごろりと横になる。手足を十分には伸ばせないけど、ごろりとするには不自由はない。しばらく、うとうと、うとうと……30分、1時間……これがまた気持ちがいい。これから何かをやろうなんて気持ちは全く起きてこない。この「時間」がずっと続いてくれればいいなあ、と思ってしまう。

 

ふと、反省の気持ちが湧いてくる。この「だらだら」は、年齢のせいかなあ。僕には「気力」ってものがなくなったのかなあ。そこへ、どこからか「気力に欠くるなかりしか」という厳しい言葉が聞こえてくる。何ごとかを成し遂げる気力は十分であったか、と言うのだろう。叱咤されている気にもなる

 

悪いことは言っていない。だけど、どうも軍国調の言葉だと思ったら、これは旧日本軍の海軍兵学校で使われていた訓戒「五省」のひとつで、今でも自衛隊なんかで使われているとか。余談がやや長くなるが、あとの「四つ」をネットからほぼそのまま借用すると、「至誠に悖(もと)るなかりしか(誠意に反する行動はなかったか)」「言行に恥ずるなかりしか(言動に恥ずかしいところはなかったか)」「努力に憾(うら)みなかりしか」(努力不足ではなかったか)「不精に亘(わた)るなかりしか(怠けたり、手抜きはしなかったか)」である。

 

閑話休題。確かに、僕の「気力」は若い頃に比べれば、衰えているだろう。だけど、まだまだ気力に満ちてやっていることも、なくはないだろう。それがないと困る。さて、何があるかなあ。そうだ、この5年間や10年間、あるいはもっとになるだろうか、毎日1万歩以上は努めて歩いている。かつて、脊柱管狭窄症を患った後遺症だろうか、速度が遅いのが気になるが、年間で1日1万歩未満の日なんて、せいぜい10日間くらいか。これなんて、我ながら、まあ大したものだ。

 

それに、歩きながら「スロージョギング」なんて奴も取り入れている。スロージョギングは時速6キロ程度のゆっくりとしたものだそうで、僕も1万歩以上の歩行中、1キロやそこらはこれをやっている。心臓は少し動悸を打つし、汗もかく。毎日やれば、健康にはとてもいいとか。ただし、さっき歩くのが遅くなったと書いたが、僕はスロージョギングのつもりなのに、歩いている人に抜かれたりする。僕のは「スロー・スロー・ジョギング」だろう。でも、まあ、やらないよりは、いいだろう。さらに言えば、いつからか、1日に数十回のスクワットもやっている。

 

もう一つ、僕が「気力」で自慢?できるのは、「酒」との付き合いだ。これは先般、僕の「健康生活」というタイトルで、このブログに書いた。なので、詳しくは書かないが、酒に対峙して負ける気はしない。今や朝まで飲み歩くような体力こそないものの、4リットル入りのウイスキーの特大ボトルを横に、家飲みで日々、楽しんでいる。(上の写真)

 

そんなことを思っていた折、日本の国旗を傷つける行為を法律で禁じる「国旗損壊罪」の法案を自民党が決めたとの報道があった。高市早苗首相の肝いりの法案で、目的は「国旗を大切に思う国民感情を保護する」こととか。「人に著しく不快または嫌悪の情を催させるような方法や状態」などで国旗を損壊した場合、2年以下の拘禁刑または20万円以下の罰金が待ち受けている

 

「気力」のことからは、少し話がずれたようだが、僕にとってはそうではない。めったに起こらない国旗損壊なのに、高市政権はなんでわざわざこんな法律を作ろうとするのか。「教育勅語」が大好きな彼女の「復古主義」「右傾化」志向の表れだろう。「日の丸」にはこれを掲げて他国を侵略した歴史もある。なんとか法案の成立を食い止めたい。聞けば、彼女のこうした考えに抗議するデモが各地で頻発している。よし、僕も参加してみようか。

 

後期高齢者になって10年超の僕だけど、前期高齢者になったばかりこの若いおばあさんから、僕は「気力」を貰っている。高市さんも一概に悪いお方とは言えない。