『源氏物語』をついに読破したぞ!!

この10年ほど、紫式部の『源氏物語』をもちろん現代語訳でいいから読んでおかなくちゃ、という思いが頭の片隅にこびりついていた。

それは中国・桂林の大学でボランティアの日本語教師をしていた時のやや後ろめたい思い出があるからだが、その話は少しあとで書くとして、ひと口に源氏物語の「現代語訳」と言っても、訳者は実に多彩である。

谷﨑潤一郎、与謝野晶子に始まって円地文子田辺聖子橋本治瀬戸内寂聴林望角田光代……訳者はまだまだいらっしゃる。そして、どれもこれも5巻とか10巻とか、分厚い本であるだけに、どれを読んだらいいのか、素人には見当がつかない。

で、さっきの「後ろめたい思い出」に戻ると、10年ほど前、その桂林の大学から「日本古代文学史」の授業をやるように頼まれた。

エッ、日本古代文学史!? 夏目漱石芥川龍之介、あるいは谷崎潤一郎川端康成あたりの明治時代以降の作家なら一応、人並みには作品を読んだことがある。だけど、江戸時代以前となると、ほとんど知識がない。源氏物語は、その冒頭のところだけ、高校の授業で習った記憶があるが、原文はもちろんのこと、現代語訳も通して読んだことがない。

でも、僕のメンツもある。日本古代文学史の授業を断るわけにはいかない。幸い、この授業は来学期からで、それまでに1カ月ほどの休暇がある。日本に戻って、いろいろ調べることができる。

と言っても、源氏物語なんかを最初から読んでいる暇はない。学生たちには申し訳ないことだが、手っ取り早く、いろんな参考書を漁って歩いた。あまり真面目一点張りの授業をして、居眠りされても困るので、面白そうな話を探した。

すると、碩学加藤周一氏(1919~2008)の著作の中に「日本文学史における3大プレーボーイ」といった話が見つかった。源氏物語光源氏、『伊勢物語』の主人公とされる在原業平井原西鶴好色一代男』の世之介の3人で、それぞれが生涯に関係を持った女性の人数が記してある。光源氏については、彼女たちのその後の運命――何人が出家したなどといったことまで書いてある。そうだ、これは授業に使える。

いま改めて加藤氏の著作をめくってみると、光源氏が深く関わり合った10人の女性のうち、半分の5人が出家している。残りのうち、2人は病死し、1人は出家を望んだが許されず、最後の2人はその死が書かれていないので、出家したか否かは分からないとのことだ。

授業でこれを披露すると、なかなかに好評だったみたいで、ある女子学生は「先生、面白かったです。こういう知識は大学院の入学試験に役立ちますか?」と聞いてきた。「いや、まったく役に立たないね」と答えると、がっかりしていたようだが、僕には、こんないい加減なことでお茶を濁しまったという反省の念が湧いてきた。

これがきっかけで、中国の大学院の日本語科の入学試験を調べてみた。すると、源氏物語の原文がかなり長く引用されている問題があった。そして、数カ所に傍線が引かれ「現代の日本語に訳しなさい」とある。僕にはとてもできない。反省の念が強くなった。僕がハルビンの大学で教えた女子学生の中には、日本に留学して源氏物語をテーマに博士号を取ったのがいる。ただ尊敬するばかりだ。

それでもこの10年ばかり、僕は具体的な行動を起こさなかったのだが、田辺聖子さんが去る6月に亡くなったことが、源氏物語の現代語訳に挑戦する契機になった。

さっきも書いたように、彼女には源氏物語の現代語訳がある。そして、彼女が亡くなって1カ月ほど後だったが、『朝日新聞』の「歌壇」を眺めていると、「谷崎も円地訳にも挫折して おせいさんでようよう源氏が読めた」という読者の短歌が載っていた。

あっ、そうだ。おせいさんでいこう。読みやすそうだ。さっそく図書館から新潮文庫で全5巻のおせいさんの源氏物語を借りてきて、ようよう読み終えたところである。

でも、源氏物語について一家言が出来たわけではない。ただ、分かったことはひとつ、ふたつ……当時のデートは男が女の家に出向くというのは知っていたが、朝方、男が自宅に戻ったら、すぐに歌を詠んで女のもとに届けなくてはならないというのは初耳だった。夕方になってはまずいのだそうだ。

また、もちろん電気も写真もない時代のこと、光源氏が女の家に通い、初めて契り合っても、相手の顔も定かではなかったりする。後日、女の顔が馬のように長いことが分かっても、心優しい光源氏は決して彼女を粗略には扱わなかったそうだ。

まあ、こんな新知識?を得た程度だけど、英国人がシェークスピアを読んでいないのと同じように、日本人が源氏物語を読んでいないのは恥ずかしいことだという話をどこかで聞いた。今後は僕も少しは胸を張れるというものである。

毛筆を練習し始めました

毛筆を練習し始めた。毎日が暇なこともあるが、ほかにも理由はいくつかある。

ひとつの理由は、ずっと以前のこのコラムでも書いたことがある。もう四半世紀ほども前、中国を旅している時に、あるところで揮毫(きごう)を求められた。しかも、紙の上ではなくて白い綿布だった。もともと、毛筆がまともには使えないのに、布の上に書くなんて、想像したこともなかった。結局、大恥をかいてしまった。「よし、日本に戻ったら、毛筆がうまくなってやろう」と思ったけど、その後なんの努力もしないで今に至ってしまった。

もうひとつの理由は、最近のテレビの画面に現れるいわゆる識者たちの毛筆の字である。たとえば、ある番組では最後にコメンテーターたちがその主張や提案を短い表現で紙に書く場面がある。大部分の人はそれに毛筆を使うようだが、失礼ながら、これらの字が上手とはお世辞にも言えない。

たまには、おや、うまいじゃないの、と思って肩書を見ると、中国駐在の元日本大使だったりする。僕と同じように中国でさぞかしご苦労なさったのだろうか。うまいかどうかは分からないが、風格のある字だなあと思っていると、日本の大学で教授をしている中国人だったりもする。よし、これを機会にかねての決意を……と脈略もなしに思ったわけである。
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さらなる理由は、ゴルフの全英女子オープンで先般、見事に優勝した弱冠20歳の渋野日向子さんである。日本記者クラブに招かれての会見の際、揮毫を求められたのだが、上の写真(8月7日付『スポーツ報知』新聞から)のような堂々たる字を毛筆でしたためた。小学生のわが孫たちも毛筆は僕より上手だ。負けちゃおれない。
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それやこれやで、遅ればせながら本格的(?)に毛筆を練習し始めることにしたのだけど、まず道具類が必要である。もっとも、わが家には何もあるはずがない。そう思いながら、飾り棚を眺めていたら、上の写真のような硯が見つかった。亀の形をしており、蓋もついていて、なかなかに立派そうに見える。多分、かなり前に中国から持ち帰ったもののようである。

必要なほかのものは買ってこなければならない。さっそく「100円ショップ」に向かった。しかるべき文房具店ではなくて、100円ショップというところが、いささか恥ずかしいけれど、ちょっと驚いたことには、そこには毛筆の練習に必要なものがほぼそろっていた。

毛筆、半紙(100枚入り)、硯、墨に始まって墨汁、筆巻き、下敷き、水書き用紙(2枚入り)から筆入れと水入れのセット、文鎮まである。もちろん、すべて税別100円で、毛筆は2本100円のもあった。硯はプラスチック製ながら使えないわけではないだろう。必要そうなものを一式そろえても、1000円でお釣りが来た。
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さて、次には「先生」は誰にするかをしばらく考えて、今までにその字を何度か拝見したことのある「武田双雲」という書道家にすることにした。といっても、彼のもとに直接弟子入りしたわけではない。図書館で『知識ゼロからの 書道入門』(幻冬舎)という彼の著作を借りてきて、ぱらぱらとめくったり、字をまねたりしている。上の写真はその本の中の一場面である。
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かくして、かなりいい加減に始まった僕の「修業」だけど、30年ほど前に亡くなった父親のことをふと思い出した。若い頃の父はそうではなかったが、晩年は毛筆を持ってよく机の前に座っていた。水墨画も描いていた。上の写真はわが家の表札なのだが、書いたのは亡父で、もうかれこれ40年近く、わが家の玄関に鎮座している。

僕もせめて自宅の表札くらいは恥ずかしくない字で書けるようになりたい。そう夢想して練習に励んでいる。

船旅の思い出

スェーデンの環境活動家、16歳のグレタ・トゥンベリさんが9月の国連本部での気候サミットに出席するため、温室効果ガスを出さないソーラーパネル付きのヨットに乗って8月28日、欧州から米国に到着した。ガス排出量の多い飛行機を避けての大西洋横断だった。

うーむ、僕と似たところがあるなあ。勝手にそう思い入れしながら、同時に、僕のこれまでの海外への船旅を振り返ってみたくなった。

僕が初めて船で外国へ行ったのは今から30年ほど前、まだ新聞社にいたころで、確か1987年か88年、40歳代の後半だった。一度、中国へ行ってみたいなあ、でも、飛行機は落ちそうで怖い。そう思って探していたら、日本と上海を往復しているフェリーが見つかったので、さっそく夏休みに乗ってみた。ただし、当時は温室効果ガスなんて話は聞いたことがなかった。

上海では数日、街中のジョギングで時間をつぶし、また船で戻ってきたのだが、これがきっかけで、船旅が好きになってしまった。上海への行き帰り、それぞれ2泊3日の乗船中、「日常」から離れて、何もしなくてよかった。終日、寝転がっていてもいい。満天の星空を見られた。自動販売機のビールは免税である。そんなことも気に入った。

89年の夏には、船会社にいた友人に頼み込んで、米国―日本―東南アジアを6週間かけて回っているコンテナ船に乗せてもらった。ただし、そんなに長く休みは取れないから、乗ったのは東京―名古屋―神戸―台湾・高雄―香港―シンガポールの10日間だけ。シンガポールからは仕方なく飛行機で日本に戻ってきた。

この船はパナマ籍で、乗組員は船長、機関長ら5人が日本人、17人がフィリピン人という「混乗船」。3食はフィリピン人のコックが刺し身、すし、天ぷらソバなどの和食を作ってくれた。彼らからタガログ語を習ったり、夕方に着いて朝出港の高雄では朝まで屋台で飲んだりした。香港では港外に停泊して一夜を過ごしたが、船から見る香港の夜景は圧巻だった。

フィリピン沖を進んでいるとき、船長が「今夜は海賊船が現れるかもしれません。戸締りを厳重にし、全速力で走ります」と言ってきた。僕は不謹慎にも、新聞記者として「海賊船」を見たかったのだが、幸か不幸か、彼らは現れなかった。

僕にとっては、この乗船は「休暇」つまり「遊び」なのだが、船会社がそんな男を乗せてくれるわけがない。そこで、建前は「取材」ということにし、事実、あとでかなり長い同乗記を新聞に書いた。遊びと仕事をごっちゃにした船旅だった。

これに味を占めて翌年夏には、まず米国・シアトルに飛んで、今度はシアトル―カナダ・バンクーバー―東京のコンテナ船に乗せてもらった。こちらは日本籍の船で、乗組員17人は全員が日本人。10日間の旅だったが、毎晩7時には、船内の時計がいっせいに逆戻りして6時になる。時差調整のためで、1日が25時間、得したような気になった。逆に米国に向かうときは、毎日1時間ずつ時計を進め、1日が23時間、夜は寝つけなくて困るそうだ。

船が走る北太平洋の夏の海は、穏やかとはいえ、波がやや高い。気分は悪くはないのだが、少し船酔い気味になって、すぐ眠くなる。おかげで朝食、昼寝、昼食、昼寝、夕食……の毎日だった。もちろん、あとで新聞に同乗記を書いた。

この2年後だったか、韓国に旅行したときは、行きは一昼夜をかけて下関―釜山のフェリーに乗った。帰りは釜山―博多の高速船を利用し、3時間ほどだった。

それから後、中国との付き合いが増えてからは、上海―日本のフェリーをよく使うようになった。いま新鑑真と蘇州号という2つの船があり、ともに総トン数1万4千トン台。新鑑真は週ごと、つまり便ごとに大阪か神戸を発着、蘇州号は毎週、大阪を発着している。

今年1月にも中国からの帰途、上海から大阪まで蘇州号を使った。料金は僕がいつも利用する2等の大部屋が片道2万円、往復3万円と、飛行機よりもずっと安く、無料の朝食が付いている。昼食と夕食は有料だが、もちろん食べるか食べないかは自由である。

ところで、日本から外国に行く客船は、ほかにもないかなあと調べてみるのだが、行く先は今のところ上海と釜山のほかはロシア・ウラジオストクくらいしか見当たらない。もちろん、豪華客船のクルーズを利用する手もある。僕も一度、国内で2泊3日だけ乗ってみたことがあるが、どうも豪華すぎて性に合わない。
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そして当面、一番訪れてみたいのは「氷川丸」だ。戦前戦後、横浜―シアトルの北米航路で貨客船として活躍し、1960(昭和35)年に引退した後は、横浜・山下公園の桟橋に錨を下ろしている(上の写真)。これまでにも2度、3度と行っているが、最近リニューアルオープンしたので、近々もう一度、タラップを上がろうと思っている。

ついに、正しい姿勢で歩けた!?

いつ頃からか、家人に「歩く姿勢も、立っている時の姿勢も、随分と悪くなった。腰が少し前に曲がって、首も肩も前に突き出ている」と言われるようになった。「昔はしゃんとしていて、かっこよかったのに」とも、家人は付け加える。

そう、もともと僕は、自分では意識していなかったけど、姿勢がよかった。高校生の時、同級生から「君は歩き方がきれいだなあ」と感心されたことがある。50歳代で新聞社からテレビ会社に出向していた頃も、同僚の若い女性から「いつも背筋が伸びていて、姿勢がいいですね」と褒めてもらった。それが寄る年波で今や、見る影もなくなったということだろうか。

もちろん、「姿勢が悪い」と指摘されて、改めるのにやぶさかではない。「それでは」と、お腹を引っ込め、できるだけ胸を張って歩くようにした。前かがみにならないように、両肩は思い切り後ろに引っ張っている。多分、かつてのかっこいい歩き方に戻ったのではないだろうか。

だが、家人の評判は芳しくない。やはり姿勢がよくないそうだ。恐れ多くも、いささか猫背の上皇陛下に似ているとのことだ。

ここで、話はちょっと変わる。前々回のこのコラムで、脊柱管狭窄症で足の痺れに悩まされている僕だけど、スーパーマーケットで買い物用のカートを押している時だけは、不思議なことに痺れてこないという話を書いた。そして、整形外科医にその理由を尋ねても、「背中が丸くなっているからですよ」と、満足がいく答えを得られなかった。

この整形外科医は某大学病院の人なのだが、僕の自宅近くにも、たまに行く年配の整形外科医がいる。ある日、突き指の治療に行った折、このことを聞いてみた。答えは「カートを押している時は腰が落ちているんですよ」とのこと。えっ、腰が落ちているって、どんな姿勢なんだろう? 分かったような、分からないような感じで、その場ではさらに質問することもできなかった。

家に戻り、しばらく考えているうちに、「腰が落ちているとは多分、腰を前に押し出すようにした格好ではないだろうか」ということに思い至った。さっそく、自分なりにその姿勢で歩いてみた。両肩はこれまでと同じく、できるだけ後ろに引っ張るようにした。

意外なことが起きた。この姿勢でいると、かなり歩いても、これまでのように足が痺れてこない。嬉しくなって、この暑さの中、散歩に精を出している。たまには痺れを感じそうなこともあるが、それはこんな歩き方にまだ慣れず、元の歩き方に戻ってしまうからかもしれない。

家人に、この新しい歩き方を披露すると、「まずまずの歩き方です」と珍しく褒めてくれた。整形外科医のひとことをきっかけに、僕にとっての「大発見」をしたのかもしれない。これがずっと続くかどうかは分からないけど、どこか幸せな気分である。

ここでまた、話はちょっと変わる。僕は若い頃、身長は170センチだった。大きくはないけど、1940年生まれの男子としては、平均より少し高かった。身長順に並んだ高校時代の集合写真を見ても、僕は後ろのほうに並んでいる。

ところが、年を取るにつれて、この身長が少しずつ縮んできた。数十年ぶりに会った友人から「おい、背が低くなったんじゃないか?」と尋ねられたりする。なんとなく情けなくなる。逆に、会社時代の先輩に何年ぶりかで会うと、同じことを感じたりする。

それはそれとして、ふとしたら僕の場合、骨粗鬆症(こつそしょうしょう)じゃないだろうか? 骨粗鬆症になると、身長がどんどん縮んでいくとも聞いた。心配になって、さっきの自宅近くの整形外科医で調べてもらったら、「年齢にしては立派なものです。決して骨粗鬆症なんかではありません」とのこと。ところで、この先生は85歳くらい、長身でなかなかに堂々としていらっしゃるのだが、診察のついでに「先生は身長が縮みませんか?」と聞いてみた。すると、「いやあ、もうどんどん縮んで、以前のズボンが履けないんですよ」との嘆き節が戻ってきた。

2年前、105歳で亡くなった聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんも、どこかで「身長が若い頃より8センチも縮んだ」と書いていた。医者にしてもそうなのだから、加齢によって身長が低くなっていくのは、避けられないことのようだ。そうであるなら、これからは縮んでいくのを嘆かないで、姿勢を正しくすることによってそれを補い、及ばずながら、かっこよく生きていたい。今はそんな気持ちになっている。

「NHKから国民を守る党」には「外国人」も期待している!?

今回の参議院議員選挙では「NHKから国民を守る党」(略称・N国)が議席をひとつ獲得した。選挙でこの党は、国政に対する態度は示さず、ひたすら「NHKをぶっ壊す」と繰り返していた。具体的には、NHKのテレビ放送にスクランブルをかけ、受信料を払った人だけが視聴できるようにしようというのだ。

いまNHKは、その放送を受信できる設備があれば、「見る」「見ない」にかかわらず、つまり全く見ていなくても、受信料は払うべきだとの立場だ。最高裁判所の判断もこれを支持している。

しかし、僕はN国と同じく、NHKのスクランブル化は合理的なことだと思っている。「公共放送なのだから、たとえ見なくても、カネを払ってNHKを支えろ」というのは、僕に言わせれば、全く筋が通らない。そして、もしスクランブル放送が実現すれは、「国民」よりも何よりも、今の日本に増え続けている「外国人」がほっとするだろうな、と思ったことである。

というのは、テレビがあっても、なくても、受信料を払っていないと、よくNHKの集金人がやってくる。日本の事情に慣れない外国人――僕が知っているのは、かつて中国で日本語を教えた中国人――にとっては、これは結構厄介なことであるのだ。その対応に困ってしまう。

あれから、もう6,7年も経つだろうか、中国の塾で日本語を教えた女性が名古屋の大学に留学してきた。初めての日本でちゃんと生活しているだろうか? 心配になって、彼女のアパートを訪ねてみた。

幸い元気そうだったが、ひとつだけ困っていることがあると言う。それはテレビもないのに、NHKの集金人がしょっちゅう来て「受信料を払いなさい」と責めることだとか。いきさつを聞くと、彼女がこのアパートに入ってすぐ、NHKの集金人がやってきた。年配の男性だった。もちろん、「テレビはありません」と答えた。嘘ではない。借金までして留学にこぎつけた彼女には、テレビを買う余裕なんて全くない。

しかし、「テレビもない貧乏人」と思われるのが、いささか恥ずかしかった。そこで、ワンセグの携帯電話を持ち出して「これにテレビも映るんですよ」と言ってしまった。普段、こんな小さな画面でテレビを見るなんてことはないのだが、集金人の目が光ったようだった。「ワンセグの携帯電話でも、NHKの放送を見られるのだから、受信料を払ってもらわないと困ります」。思ってもみなかった返事が戻ってきた。当然、彼女は「だって、見てないのだから・・・」と精いっぱい抵抗した。

集金人はいったんは戻って行ったが、以後、「払え、払え」と何度もやってくる。その攻勢に耐えかねて、彼女はアパートを替わった。すると、どうしてそれが分かったのか、すぐに同じ集金人がまた訪ねてきた。

僕もここまで聞いて、彼女に同情した。で、彼女を連れて、NHKの放送局まで行ってみた。営業担当の女性が出てきて、中国人留学生の話を熱心に聞き、彼女も同情してくれた。そして、どうやったら集金人の攻勢から逃れられるか、「秘密です」と言いながら、その方法を教えてくれた。以後、留学生からは受信料についての話はないから、多分うまくいっているのだろう。

この留学生から何年か遅れて別の教え子の女性も名古屋に留学してきたが、さすがに同じ轍は踏まなかった。「テレビはありません」だけで押し通している。もちろん、本当のことだ。ただ、アパートを替わると、NHKの集金人がすぐにやってくるのには驚いた。「どこからその情報を手に入れているのでしょうか?」。そして、2度、3度とやってくる。

日本で5年ほど働いていた年配の中国人女性からも、NHKの集金人の「怖さ」を聞かされたことがある。彼女は会社を変わったり、同じ会社でも転勤があったりして、東京と大阪で何度かアパートを替わった。

すると、彼女に言わせると、摩訶不思議なことに、アパートを替わるとすぐNHKの男性の集金人が訪ねてくる。それも、「NHKです」とは、はっきりと言わない。でも、NHKだと察して「うちにはテレビはありません」(これも本当のこと)とだけ言って、ドアを開けない。すると、「いえ、テレビはなくても、いろいろ役に立つ話もありますから」と、なかなか帰ってくれない。夕方、自宅に戻り、部屋の電気をつけると、すぐ「ピンポーン」ということもあった。どこかで待ち伏せしていたのだろうか。

ここまでNHKの集金人の悪口を書いてきたが、この人たちも別に悪いことをしているわけではない。それどころか、法律に基づいた正しい仕事をしているつもりだろう。だけど、集金人は僕が知る限り、おおむね年配の男性である。そのせいもあって、日本になれない外国人、とりわけ女性にとっては、結構な「恐怖」なのである。スクランブル放送さえ実現すれば、彼女たちが集金人に責められることも、恐怖を感じることもなくなるはずである。

もうこりごり!?の手術は避けて・・・

右肺に出来た腫瘍の除去手術については、3回も長々と書いてしまったが、実はこれが無事に終われば、続いてもうひとつ、別の手術をするつもりだった。

これまでにも何回か書いてきたが、僕はこの十数年来、「脊柱管狭窄症」というのに悩まされている。脊椎にあって神経を囲んでいる脊柱管が、加齢に伴って狭くなり、その結果、足が痺れたりする病気だ。いつもではないのだけど、時々そんな症状が現れ、歩くのに難儀する。

で、今年は思い切って「肺」と「脊柱管」の両方を手術しようと思っていた。ついては、順番をどうするか。どちらがより大変だろうか。慶応義塾大学病院の呼吸器外科と整形外科の医師に相談した。すると、脊柱管のほうはけっこう大きい手術で、患者の体力もいるが、肺の手術はごく軽いものだとのこと。じゃあ、まず肺からということにした。

ところが、あにはからんや、退院すれば体力はすぐ元に戻ると思っていたのに、まず足元がおぼつかない。したがって、速く歩けない。街中で、おじいさんやおばあさんにさえ追い抜かれてしまう。家人は「退院してすぐビアホールに駆け込んだりするからです。回復が遅れるので、アルコールは控えてください、とお医者さんはおっしゃっていましたよ」と言うが、僕はそんなこと聞いていない。結局、手術前と同じように歩けるまでには2カ月近くかかった。

脊柱管狭窄症の手術をやれば、全快までにもっと日数がかかりそうだ。うまくいかず、手術を2回、3回と繰り返すこともあると聞く。出来ればやりたくない。しかし、足が痺れるのはイヤだから、これまでいい加減にやっていた「体操」の類いを真面目にやって、治療に努めてみようか。

そう思っていたら、体操だけで脊柱管狭窄症を治したという友人がいた。僕と同い年で若い頃、一緒にサッカーをやっていた。ゴールキーパーの彼は今もボールを蹴っているが、一時は試合中、ゴールに立っていられないほど、足が痺れていた。それが今はなんともないとか。彼が経営している小料理屋でその体操を実演してもらったが、「肝心なのは筋肉を鍛えることだ」そうだ。

『脊柱管狭窄症は自分で治せる』(マキノ出版)という本を見つけてぱらぱらとめくっていたら、「テニスボール指圧」(下の写真左側)というのが目についた。筋肉のこわばりをほぐし、血流をよくするとのことだが、そういえば、愛知県で「スポーツマッサージ」なる看板を掲げている友人が、ビール瓶で同じように指圧したらどうか、と勧めてくれたことがある。結構やりにくいので、長続きしなかったが、テニスボールならそう面倒ではない。さっそく買ってきた。
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「スクワット」(上の写真右側)も筋肉を鍛えるのだから、悪くはないだろう。これもすぐに始めた。あと、3年ほど前にもこの欄で紹介したが、三角形の台(下の写真)の右端の突起に両かかとをつけて立ったりもしている。足の後ろの筋が引っ張られて、やや痛いけど気持ちがいい。この台はさっきのマッサージ師の友人がプレゼントしてくれた。最近はあまり熱心にはやっていなかったが、手術をやめたのをきっかけにまた励行し始めた。
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ところで、最近「発見」したことがある。今日は割合に足が痺れるなあといった時にスーパーマーケットに入り、買い物用のカートを押して歩いてみると、嘘のように痺れが消えていくのだ。脊柱管狭窄症のせいか、足首が痛い時もカートを押せば、痛みが消えてしまう。これをスーパーで何度も試しているが、裏切られたことはまだない。

整形外科の医者にこのことを話すと、「それは背中が丸くなっているからですよ。自転車に乗っている時も痺れることはないでしょ? あれと一緒です」と、相手にしてくれない。

しかし、この「背中が丸くなっているから」というのには、僕はどうも納得できない。丸くならず、背筋を伸ばしてカートを押していてもそうなのだ。どうしてなのか? 医者が相談に乗ってくれないのなら、これから自分の「研究課題」にしてみようか。案外、画期的な治療法が見つかるかもしれない。

まあ、そんなわけで、これまでは「いざとなったら手術すればいい」と甘えてきたが、今後は「退路」を断って、体操一筋で頑張ってみようと思っている。これについても、さっきの整形外科の医者は「よくなる場合もありますが、かえって悪くなる場合もあります」とのこと。でも、悪くなっても、殺されることはないのだから、気は楽である。手術は、もしやるとしても、ずっと先のことだ。

続々・非日常の9日間――「幻覚」「幻影」に悩まされる

慶応義塾大学病院で右肺の腫瘍除去手術を終えてから、確か2日目の朝のことだった。ベッドから床に降り立ったが、周りの様子がどこかおかしい。といっても、ベッドやテーブル、テレビ、物入れなどの配置が変わっているわけではない。テーブルの上のこまごまとした僕の私物も昨夜のままだ。

違うのは全体の雰囲気で、どこか「硬い」感じがする。テーブルやテレビがいやにくっきりと見える。寝る前はもっと「軟らかい」感じだった。全体がぼやけていたといってもいい。

僕がいるのは4人部屋で、4つのベッドがそれぞれカーテンで仕切られている。僕のカーテンの外はどうなっているのだろうか? 昨夜と同じだろうか? 外に出て、1つのカーテンを引っ張ってみた。「間違っていますよ」と、ベッドの上から親しげな声がした。「あっ、すみません」。顔見知りになったご老体だった。あわてて、自分のベッドに戻った。

僕のいる病棟は長い廊下を挟んで両側に4人部屋と1人部屋が並んでいる。廊下のほうはどうなっているのだろうか? 出てみたら、反対側の病室は消えている。机が並んでいて、その上には、雑誌や書籍が山積みにされている。どこか「1980年代」の「出版社」の雰囲気である。

自分のベッドに戻って考え込んだ。僕がいまいる病室は「2019年」に存在している。ところが、廊下の向こう側には1980年代の出版社がある。1つのビルの中に1980年代と2019年という2つの「時」が共存している。この「不条理」をいったいどう解決したらいいのだろうか?

その後、どうなったのかは分からない。記憶がない。ただ、この幻覚・幻影がすべてベッドの上で「夢」を見ている間のこととは思えない。隣のベッドのカーテンを引いた時は、確かに起きていた。夢の中でのことではなかった。また、僕は長らく新聞社に勤めていたが、1980年代の一時期には雑誌の編集に携わっていた。それが今回の不条理とかかわっているみたいだけど、どうしてあの頃ことが突然、出てきたのだろうか。

手術後2日目から3日目にかけては、この種の幻覚・幻影がいくつも出てきた。例えば、白っぽい壁やカーテンを見ると、新聞の記事が10行、20行と浮かんでいる。あるいは、画数が何十もありそうな難しい漢字がいくつも書いてある。目を凝らすが、新聞記事も漢字もはっきりとは見えない。したがって、意味はまったく分からない。また、ベッドに寝転んで天井を見上げると、そこには迷路のような地図が描かれている。

そんなものを見るのが嫌になって、目をつぶると、今度は何かの映画の場面が次々に眼前に展開する。目をつぶっても、眼前が薄暗くなってくれないのだ。

心配になって、手術をしてくれた医師や看護師に訴えると、「手術の時の麻酔の影響でそんなこともありますよ」と、そう問題にもしていないみたいだ。手術の前に、麻酔科の医師から麻酔についていろいろと説明を受けたが、そんな話はまったくなかった。

僕があまりにも心配そうにしていたからか、手術後3日目の深夜、看護師がベッドにやってきて「幻覚・幻影を消す薬と睡眠薬です」と言って、錠剤を2個、置いていった。4日目あたりになって、幻覚・幻影がやっと薄らいできた。新聞記事や漢字が目の前の壁やカーテンに出てきても、目をこすると消えていってくれる。

退院してからネットで調べてみると、「国立国際医療研究センター病院」による「麻酔の副作用・合併症」という記事が出てきた。そして、同じ副作用・合併症でも「比較的に頻度の高いもの」と「まれな合併症」があり、前者には吐き気・嘔吐やのどの渇きなどがある。僕も経験した。

後者には最初に「術後痴呆・譫妄(せんもう)」というのが出てくる。その説明では「高齢者の方には、手術の後でいわゆるボケが見られたり、異常な興奮や言動が見られたりすることがあります。これらの多くは、入院や手術という環境の変化によるストレスが原因で、一時的なものがほとんどです」とある。

なるほど、僕は手術後の2日目、3日目、まさに「ぼけていた」ようなのだ。隣のベッドのカーテンをいきなり引いたのも、異常な行動だった。恥ずかしい。

しかし、ぼけていた際に浮かんできた幻覚・幻影そのものは「1980年代の出版社」だの「新聞記事」や「画数の多い漢字」だの、随分とレベルの高いものだった。そんじょそこらの「術後痴呆」とは程度が違うんだ。そう自分を慰めたことではあった。