わが家の本棚を整理していたら(日本語にすると)「ハルビン理工大学外国語学院日本語科 成立30周年 1985-2015」と称したアルバムが出てきた。
僕は今世紀の初頭、中国の最北端黒竜江省ハルビン市にあるこの大学でボランティアの日本語教師をしていた。5年間、これをやった後、今度は中国最南端の別の大学に移ったりしていたが、さっきのアルバムができた2015年には日本に戻っていた。そこへ、アゴアシ付きで、日本語科成立30周年記念式典への招待状が舞い込んだ。このアルバムはその折に、ハルビンで頂戴したものだ。

アルバムには毎年の卒業生と教師との記念写真が並んでいる。例えば、上の写真は2004年のもので、最前列に教師、2列目以降に卒業生が並んでいる。女性が多く、男女合わせて総勢100人ほど。まあ、盛況である。ちなみに、最前列の向かって右から3人目が僕、その右隣が僕の大学時代の友人で、元商社マン。僕が帰国した折に「中国での日本語教師は面白いぞ」と話すと、「俺も行く」と僕の2年遅れでやってきた。当時、日本人の教師は僕ら老人2人のほかに、30歳ほど若い男女の教師もいた。元焼き鳥屋の親父という人もいた。総勢4~5人で、自分で言うのもなんだけど、多士済々だった。
僕がこの大学を去った後、学生の数はさらに増え、アルバムの写真で数えると、200人を超えている。1枚の写真では全員が収まらなくなり、クラスごとに記念撮影したりしている。日本語、そして日本が光り輝いていた時代だったのだろう。
アルバムを眺めながら、そんな懐かしい思い出にふけっていたのだが、このところ、現地から聞かされる話に思いが飛ぶと、気持ちは暗転した。僕の教え子の中には母校の日本語科の教師になった者もいる。そんな女性から2年ほど前だったか、「日本人の教師がとうとう1人もいなくなりました」とのメールが舞い込んだ。日本語科として初めての事態のようだ。あちこちで募集しているが、来てもらえないとのこと。「日本人の先生がいないと、学生の会話やヒアリングの能力はなかなか伸びません」と、彼女は嘆いていた。確かに、日本語に限らず、大学の外国語の学科でネイティブの教師がいないなんて、異常事態である。日本語の1級試験の合格率も落ちてきたそうだ。
びっくりした僕は、自分なりに日本のあちこちに声を掛けてみたが、今のところは力及ばず、成果はないみたい。さて、今年はどうなのか。中国では日本と違って、9月から新しい学年が始まっている。
さっきの彼女にメールで尋ねてみると、やはり日本人教師ゼロで新学年がスタートした。大学の上の方の人たちも日本人教師の採用は諦めているみたいだと言う。でも、せっかく、大学の日本語科に入ったのに、周りが中国人教師ばかりでは、学生たちもちょっとは力抜けするのではないか。老いぼれでもいい、僕のような連中がキャンパスをうろうろしていた方が、まだましではないだろうか。一方、日本語科の新1年生の数は50人。僕がいた頃に比べれば半減だが、これでも、いないよりはましだ。日本語科の学生募集そのものをやめる大学が続々だと言う。
やはり、日中・中日関係の悪化が背景にあるようだ。近年、日本企業は次々に中国から撤退していく。当然、日本語科を出ても就職先が減っていく。日本に行けば、まだ就職先はあるが、今度は親が「放射能汚染水」の日本へ子供をやりたがらないとか。放射能汚染水なんて言葉は、我々はとっくに忘れているだろうが、中国ではまだまだ生きているのだ。
中国における日本語教育は、事態が悪い方に、悪い方にと動いて行っている。さっきもちょっと書いたが、僕は60歳代から70歳代にかけての一時期、ハルビンや桂林、南寧で、日本語を教えることにそれなりの情熱を注いでいた。ハルビンと桂林では大学で、その後、同じ桂林と南寧では、教え子の力を借りてつくった塾で教えていた。塾は「東方語言塾」と言い、僕にはできないが、韓国語と、日本人相手に中国語も教えていた。いつか、中国、朝鮮半島、日本が自由に行き来できるようになる日に備えて、といった気持ちだった。
それだけに、中国での日本語教育の現状を聞くと、寂しくてしようがない。僕はいま80歳代半ばだが、まだまだ元気だ。何かできることはないだろうか。寂しさとは逆に、さて、何をしてやろうか、腕が少しムズムズもしてくるのである。





