外国語の「リスニング」で認知症を防ごう

あ、そうだ、お知らせするのを忘れていました。6月終わりに受けた「中国語検定試験3級」の結果です。(7月1日更新の「半世紀ぶりの『受験』」ご参照)

この試験は「リスニング」と「筆記」の2つに分かれていて、どちらも100点満点、そして、どちらも65点以上を取らないと合格できない。例えば、一方が満点でも、他方が65点未満だったら、不合格である。当の試験で僕は、筆記の方は何とかできたのだが、リスニングがからきし駄目。ほとんど聞き取れなかった。

僕は英語でもリスニングが全くいけない。それは音感が悪く、歌ひとつ歌えないせいだろうと、自分なりに思ってきた。何しろ中学生の頃の音楽の試験でも、「歌う」のを僕だけが免除されていた。担当が優しい女の先生で、僕に恥をかかせたくないとの思いやりだったのだろう。

まあ、そういうわけで、中国語検定試験が終わった後、自己採点ができるのにやらず、どうせ駄目だからと放っておいた。ところが、1カ月ほどして届いた試験結果を開けると、意外なことに「リスニング70点、筆記93点」で合格していた。リスニングの試験はそれぞれの問いに答えが4つずつあり、その中から正解を1つ選ぶ方式だった。つまり、いい加減に解答しても、25パーセントの確率で正解にぶち当たる。思うに僕の場合、そうした僥倖が重なったのだろう。

それはそれとして、日本語と同じ、あるいは似た漢字を使っている中国語ではあるけど、日本人にはその発音やリスニングが大変に難しい。例えば、僕がこの春から通っている東京・後楽園の「日中学院」で同級だった男性が上海に転勤した。彼のリスニングの力は僕より明らかに上だ。その彼が初出勤の日、高層ビルの8台あるエレベーターの1台に乗ろうとすると、黒いスーツの男が寄ってきて「ジーロウ」と言う。ジーロウ? 鶏肉のことだ。そうか、見慣れない自分のことを「チキン野郎(臆病者)」と言って軽蔑しているのだな。ひるんだ方が負けだ。

男に構わずにエレベーターに乗り込んだ。ところが、男はしつこく「ジーロウ」と言いながら、エレベーターの中までついてくる。わが同級生は行き先の35階のボタンを押そうとして、はたと気づいた。35階のボタンがない。自分の事務所に行かないエレベーターもあるのだ。中国人の男の言う「ジーロウ」は、発音は似ているみたいだが「鶏肉」ではなく「何階?」という意味だったのだ。「チキン野郎」と軽蔑しているのではなく、「何階に行きますか。エレベーターを乗り間違えないように」と、親切に尋ねてくれていたのだ。

中国語の発音記号(ピンイン)では、鶏肉は「jirou」、何階?は「jilou」と書く。それほどには違わないようだが、これに発音の上げ下げ、つまり「声調」が加わるから、中国人にとっては全く別の発音である。ところが、中国語を習って日の浅い日本人には、時には同じに聞こえてしまう。「難関」である。

中国人が日本語を勉強する際にも、似たような「難関」がある。いわゆる「同音異義」の言葉で、「いぎ」だと「異義」のほかに「異議」「意義」「威儀」がある。「こうえん」だと「公園」「後援」「公演」「口演」「講演」「高遠」「好演」「公苑」「香煙」・・・日本人は会話の中で「こうえん」と聞いたら、漢字ならどれか、瞬時に判断できる。しかし、これも日本語を習って日の浅い中国人には、なかなかに難しい。

さっきは名詞だったが、動詞でも同じだ。「はかる」は「計る」「測る」「量る」「図る」「諮る」「謀る」といった具合。中国語にも同音異義の言葉はあるが、日本語に比べれば、はるかに少ない。

中国人には、中国語にはない日本語の長音も聞き取りにくいそうだ。例えば、「ビル」と「ビール」、「基礎(きそ)」と「起草(きそう)」、「おばさん」と「おばあさん」。日本人にとっては、なんでもないことのようだが、「これが苦手です」と、中国人でベテランの日本語教師が話していた。

ここまで書いてきて、ふと思いついた。前回、前々回には認知症の話を書いたが、こいつを予防するには中国語のリスニングが役立つのではないか。中国人にとっては日本語のリスニングだ。もちろん、中国語や日本語でなくてもいい。外国語であればいい。手元に何もなしに中国語を聞いた場合、簡単な文章のはずなのにほとんど聞き取れない。そんなことが僕にはよくある。でも、その文章を目で見ると、辞書なしでも読める。つまり、外国語のリスニングは聞きながら想像力をかき立てる必要がある。脳みそをフル回転させる必要があるのだ。認知症の予防には最適ではないか。

よし、隗(かい)より始めよだ。この夏、日中学院の「集中耳トレ」なる講座に通っている。「耳トレ」とは「耳のトレーニング」といった意味だ。週に1回、2時間の授業だけど、ほとんど聞き取れない。いやあ、くたびれる。リスニングの試験で90点台を取れるようになるのが早いか、認知症になるのが早いか――さあ、競争です、といったところである。