続・「認知症」の人たちと過ごした一日

認知症の人たちが暮らすグループホームに行く前、少し不安だったのは入浴や排泄(はいせつ)の世話をどの程度やるのだろうかということだ。「介護職員初任者研修」では生徒たちが代わる代わる「介護職員」か「利用者」になって、いろいろと「実習」をやってきた。例えば排泄では、車椅子で一緒にトイレに行き、便座に座って用を足してもらう。ポータブルトイレを使うこともある。それらができない人には寝たままで「尿器・差込便器」を使って排泄してもらう。あるいは、やはり寝たままで陰部を蒸しタオルなどできれいにし、おむつを交換する。

ただし、そのどれもが洋服を着たままでの実習だった。パジャマを着る時も、洋服の上からつけていた。だから、「実戦」には程遠い。でも、今回は僕にそれほどのことが期待されていたわけではなかったようだ。

「あなたは少し離れた所から見ているだけでいいですよ」。女性の介護職員がそう言って、90歳過ぎの「利用者」の女性の排泄、入浴に僕を同行させてくれた。利用者は立ち上がるのがやっとで、それもわずかな時間しか続かない。車椅子でトイレに連れて行ってズボンを脱がせ、便座に座らせて排泄してもらう。その後、下半身は裸のまま、タオルで覆うだけで、また車椅子ですぐ隣の浴室へ。浴槽につかるだけの力はないので、椅子に座ってシャワー浴だ。ふと、車椅子を見ると、彼女のお尻があった辺りに小さな黒い塊が・・・大便のようだ。「ああ、よくこんなことがあるんですよ」と、介護職員の女性が手際よく片付ける。僕にはまだこんなことは手に負えない。

では今日、利用者の話し相手になる以外には何をやればいいかなあ。そう考えていたら、介護職員の別の女性が利用者9人分の昼ごはんを作っているのが目についた。各人一汁三菜といった感じ。配膳も大変だろう。それくらいは手伝おうか。ついでに、食器洗いもやってしまったら、「今日は本当に助かりました」と、真顔で感謝されてしまった。

このグループホームの介護職員の勤務は4直で、普通は常時2人、多い時でも3人とのこと。結構忙しそうだ。介護職員初任者研修で習った教科書には、グループホームでは利用者と介護職員が一緒になって、例えば献立を考える、食材を買いに行く、調理して配膳する、そして利用者が忘れていた「生活」を取り戻していく、といったことが書いてあった。でも、ここの利用者にはちょっと難しいみたいだ。朝昼晩の3食とも介護職員が作っていた。週間献立表といったものはなく、その場その場で考えなくてはならない。僕には無理だ。まあ、カレーぐらいは作れるけど・・・。

食事を作る、皿洗いする、それよりももう少しやさしいこと――例えば、僕が洗った食器を乾いたタオルで拭く、介護職員が洗濯したばかりの衣類を干しやすいようにハンガーに掛ける、といったことを2人の利用者の女性が分担してやっていた。これが「生活」を取り戻すということの一環なのだろう。

百人一首坊主めくりを一緒にやった山の手奥様風の女性から尋ねられた。「息子はどこにいるのでしょうか?」。僕が口ごもっていると、横から介護職員の女性が「息子さんは昨日、いらっしゃったから、今日は来られません」と助けてくれた。「ああ、息子に会いたい。寂しいわ」。がっかりしたような声が戻ってきた。

車椅子の江戸っ子さんからも「子供や孫たちがもっと来てくれたらいいのに、なかなか来てくれない。来てくれたら、一緒にご近所を散歩できるのに、まあ、しようがないわね」と何度も言われた。声が明るいから、それほどには感じなかったけど、やはり寂しいし、退屈でもあるのだろう。

僕がトイレと浴室にお付き合いした女性には午後、お孫さんらしい女性がやって来て、晩ご飯の時まで個室で過ごしていた。結局、この日やってきた家族はこの人だけだった。僕のようなほとんど役に立たない者でも、たまにやって来てうろうろしたほうがいいのかも知れない。ちょっと少女っぽい声を出す、坊主めくり仲間の女性からは「あんた、いい耳をしてるわね」と言われた。僕は耳たぶが仏像みたいに大きい。こんなことでも退屈しのぎにはなるのだろう。

ところで、こんなグループホームに入るには月にどのくらい掛かるのだろうか。廊下に貼ってあった案内を見たら、家賃、食費、管理費が16万円ほど。ただし、これらは「その他の経費」に当たり、当然、直接の介護にもおカネが要る。家族が認知症になったからと言って、そうそう簡単に出せる金額ではない。

それはそれとして、認知症の人たちとの初めてのお付き合いは(まあ、無責任な感想ではあるけれど)どこかほのぼのとしたものも漂っていて、楽しかった。利用者同士のちょっとした口げんかもスパイスのようなものだった。またグループホームに来る機会があったら、話のネタになるものをいろいろと持ってこよう。2012(平成24)年に約462万人だったわが国の認知症の人は、2020(平成32)年には600万人以上になるとも言われている。