頭を上げようよ!!

コロナ禍以来、埼玉の田舎に蟄居している日が多くなったけど、たまには郊外電車で東京に出かける。都内ではJR山手線や地下鉄で移動する。そんな折、電車の中で僕が気になるのは、スマホを眺めている人が(誰も彼もがと言ってもいいほどに)実に多くなったことだ。座っている人も立っている人も、首を少し前に曲げ、つまり頭をやや下げて、一斉にスマホの画面に見入っている。

その結果、僕にいかなる被害が及んでいるわけではないけれど、周りを見るたびに、なんか異様な感じがする。僕も一応、スマホを持っているが、電車の中では、時刻を確かめたり、メールの着信を調べたりする程度で、ごく短い時間しかスマホを見ない。それなのに皆さん、なんで、あんなにも、スマホを見続けなければいけないのだろうか? 僕は新聞や本を読んでいなければ、ぼんやりと車外の風景を眺めたりしている。

ふと、ずっと前、中国・上海の地下鉄でも同じようなことを感じて、このブログに書いたことを思い出した。古い記事を探っていくと、ちょうど11年前の2013年春にそれはあった。中国南方の都市・南寧で日本語などの塾を開いていた頃の話で、「低頭族と抬頭族」と題したそのブログの書き出しは以下のようになっている。

――春節旧正月)の休みで上海を経由して日本と行き来した。上海では何回か地下鉄に乗ったし、東京では毎日のように地下鉄、JR、郊外電車に乗っていた。その折、気づいたことがある。東京では電車の中で本や雑誌を読んでいる人が結構「いる」ことだった。そして、上海では「いない」ことだった。

読んで、ちょっとびっくりした。当時の中国では、スマホなどの操作に夢中になって、じっとうつむいている人を「低頭族」、日本語らしく言えば「うつむき族」と呼んでいたが、その多さでは上海が東京のかなり先を行っていたのだ。


そして当時、上海の地下鉄の駅には、上の写真のような公共広告がまさに林立し、「抬頭族になろう」と呼び掛けていた。「うつむき族」に対して「上向き族」ということだろう。モデルの目線は上を向いている。「スマホなどに没頭するな」とは書いていないが、「低頭族」「うつむき族」に対するアンチテーゼである。どうやら「問題意識」も上海のほうが東京より進んでいたみたいだ。

話を今の東京に戻すと、車内に設けられた「優先席」を若者が占領していることがよくある。もちろん、優先席が空いている場合なら、一向に構わない。ところが、車内が混んできて、老人たちが立っていても、若者は席を譲ろうとしない。それも無理のないことで、連中の目はスマホに吸い付けられていて、老人たちが目に入らない。いや、老人たちを見ないために、スマホに向かっている。つまり、スマホが本来の役割とは違った邪悪な使われ方をしている……そう勘繰りたくもなってくる。

一方、うつむき族の先進地・上海の現状はどうだろうか。しばらく上海に行ってないので、同地在住で元教師の中国人女性に問い合わせてみた。「電車の中? それはひどいものですよ」と言った後、別の話をしてくれた。彼女は時には会合に呼ばれて講演する。そんな折、聴衆に質問を出すと、相手はいきなりスマホを開いて、答えを探し始める。講演中、スマホは駄目だと言いたいけど、こうしたバイト代も生活に必要なので我慢しているとか。

また、レストランで若いカップルや友人同士が食事しているのを見ると、ほとんど話さず、お互いスマホだけを見ながら食事を終えるのが普通だそうだ。そんな光景を風刺する言葉として、日本語にすれば「電子ザーサイ」「電子漬物」といった表現も流行っているとのこと。スマホが食事の際に食欲を増進するザーサイや漬物の代わりになっているわけだ。さらには、家庭での食事の際、親が子供と話そうとしても、子供の目はスマホに吸い付けられていて、親が困っているとも彼女は教えてくれた。

ひとつ、僕が心配していることがある。もし、こんな状態がこれから3世代、4世代、5世代と続いていったら、人間の「体付き」そのものも変わってきはしないだろうか。例えば、赤ちゃんができた時、将来スマホを眺めやすいようにと、首が前に少し曲がった格好で、お母さんの胎内から出てこないだろうか。現に、人間にはもともと「しっぽ」があったが、進化か退化かして、今は「尾骶骨」になっている。そんなこともあるのだから、首が前傾した赤ちゃんの誕生も、あながち杞憂とは言えないのではないか。