求む、日本人教師やぁーぃ

僕は今世紀初めの5年間、中国は黒竜江省ハルビン理工大学で日本語の教師をしていた。60歳で新聞社を辞めたあとのことで、「給料なんて要りませんよ」と、大きな顔をしたボランティアだが、宿舎代と光熱費は大学が負担してくれた。

その大学でいま日本語を教えている女性から最近、「SOS」が舞い込んできた。彼女は当時の僕の教え子である。メールによると、1人いた日本人教師が昨年退職し、今年からは日本人がゼロになった。あちこちで募集しているが、なかなか来てもらえない。「日本人の先生がいないと、学生の会話やヒアリング能力はなかなか伸びません」とのことだ。

僕がいた頃はあんなに日本人教師がいたのに、どうしたのだろうか? 当時の記憶を探った――60歳以上のボランティアの老人は僕と学生時代の友人の2人。友人は僕の話を聞いて「面白そうやなあ」と、あとからやってきた。そのほか、20歳代、30歳代、40歳代の男性、女性、「日本で高校教師になるつもりがうまくいきませんでしたので、当分はこちらで……」「焼き鳥屋をやっていましたけど、今回はJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊員として……」などと、いろんな経歴の人がいた。入れ代わり立ち代わり、常時4~5人の日本人教師がいたと記憶している。

それがゼロになった。日本と中国の最近の冷ややかな関係が影響しているかもしれない。また、JICAはこれまで開発途上国向けに、つまり中国に対しても、費用は日本持ちで教師などを青年海外協力隊員として派遣してきたが、中国向けは2022年で中止になった。中国は経済大国なのだから、仕方のないことだが、これも影響しているだろう。

でも、ハルビン理工大学は何しろ僕が5年間、機嫌よく、かつ楽しく在籍したところである。放っておくわけにはいかない。採用の条件を聞くと、一応は60歳以下の大学卒で、給料は月に6500元(日本円だと13万円台)、宿舎は大学側が提供し、光熱費も要らない。年に2回、日本との往復の航空券代が出る。ボーナスも――などなどだが、給料がやや少ない。でも、自炊したり、校内食堂で食べたりすれば、十分に食ってはいける。

よし、日本人教師の募集に少しは力になってみようか。とは思ったものの、長年の「浪人」には、どこに声を掛けたらいいのかが分からない。仕方なく昔の資料をひっくり返していたら、僕より30歳以上も若い当時の同僚で、力になってくれるかもしれない2人の男性を見つけた。あれ以来、どこかで1回かそこら会ったことがあり、連絡先が手元にあった。うち1人は高校の先生をしているから、この種のコネがあるかもしれない。もう1人は行政書士だが、電話で聞くと、日本語学校も経営しているとか。2人とも期待できそうだ。事情を話すと、早速あちこちに「募集要項」を配ってくれている。もちろん、このブログの読者が直接、僕にお声を掛けて頂くのも大歓迎である。

余談ながら、昔の資料からは、僕がこの大学を辞めた際、惜別の辞を載せてくれた大学新聞も出てきた(上の写真)。「“藤野先生”在中国」(藤野先生は中国にいる)という見出しの記事は「かつて魯迅には藤野厳九郎先生がいた。私たちにはいま岩城元先生がいる」「永遠にあなたに感謝いたします」と締めくくられている。

さらに、余談を続けると、中国が「清」だった時代のこと、清から日本に留学していた魯迅は一時、仙台の医学専門学校(東北大学医学部の前身)に籍を置いていた。ただ、魯迅の日本語は未熟で、講義のノートをきちんと取れていなかった。それを心配した解剖学担当の藤野厳九郎教授は魯迅に毎週ノートを持ってきて見せるように言った。そして、魯迅の作品『藤野先生』によれば、「わたしの講義ノートは始めから終りまで、すっかり朱筆で添削してあったばかりか、たくさんの抜けている部分が書き足してあり、文法のあやまりまでいちいち訂正してあったのだった」(駒田信二訳)

魯迅は結局、医学専門学校を辞め文学を志したのだが、中国に戻ってからは藤野先生の写真を自分の机の前に掛け続けた。そして「夜、仕事に倦み疲れて、なまけごころがおこってくると、いつも、顔を上げて」彼の顔を眺めた。すると、「わたしにはたちまち良心がおこり、勇気が加えられるのである」と記している。僕も中国に何枚か、顔写真を残してくればよかったかもしれない。

いやはや、日本人教師募集の話にかこつけて、自慢話を長々と記してしまったが、中国での教師業がいかに楽しいかの例としてお許し願いたい。