仰げば尊し わが師の恩……

この9月10日、中国・ハルビン在住の中国人女性から1通のメールが届いた。メールは「教師の日、おめでとうございます」で始まり、「先生のご恩は決して忘れることはありません。本当に心から感謝しております」と続く。あと、僕の健康を尋ねたり、自分や家族の近況を述べたりして文面は終わるのだが、彼女は昔、ハルビンの大学で僕が日本語を教えた学生のひとりだ。今は母校の日本語科で准教授になっていると聞く。僕がハルビンを離れてから、もう20年近くになるが、毎年9月10日になると、律儀に「先生のご恩は……」のメールがやってきて、面はゆい気持ちにさせられる。

ところで、「教師の日」、中国語で言う「教師節」は、いま教えてもらっている先生や昔の恩師に感謝する日で、中国では1985年にできた。僕も中国で教えていた頃には花束をもらったりしたことがある。台湾では孔子の誕生日である9月28日が教師の日だ。日本ではなじみが薄いが、教師の日を設けている国は多く、国際連合教育科学文化機関ユネスコ)も10月5日を「世界教師の日」と定めている。

そして、さっきの女性からは、それほど「ご恩」を感謝されるはずはないのだけど、日本で新型コロナ感染症が流行り出し、マスク不足が騒がれていた頃には、中国から段ボール箱いっぱいのマスクを届けてくれた。その前には1年ほど、新潟県庁で研修を受けていたが、帰国する前には、わざわざ新潟から僕の住む埼玉県まで日帰りでやってきて、ご馳走してくれた。今や、僕の方が逆に「ご恩は決して……」の立場になっている。

一般的に言って、日本人よりも中国人のほうが、学生・生徒と教師との「情」といったものが濃いように僕には思われる。中国の教師の日があったこの9月にも、僕は日本にいる中国人の教え子ふたりからそれぞれ、多大な接待を受けてしまった。

ひとり目は、中国南方の桂林と南寧で僕が仲間とやっていた塾に、高卒で19歳の頃から通っていた女性である。彼女はその後、日本に留学して名古屋の大学を卒業し、今は岐阜県中津川市にある自動車関連の企業で働いている。コロナ禍以前は東京や大阪・京都でたまには会っていたが、コロナ禍もあり、しばらくご無沙汰していた。「ついては、久しぶりにお目に掛かりたいです、金土日の2泊3日で夫婦で遊びに来ませんか。宿は中津川の隣の恵那温泉に取っておきます」との彼女からのお誘いが飛び込んできた。

嬉しくて、二つ返事でOKした。3人一緒の際の食事代だけは強引になんとか僕が払ったが、宿代はついつい彼女に甘えてしまった。3日間、自分の車であちこちを案内してくれたが、ガソリン代も高い折、これも大変だったろうなあ、と申し訳なく思っている。

もうひとりは、南寧で大学生だった男性で、大学に通う傍ら、僕の塾に出入りしていた。その後、札幌の大学に留学して「農学博士」になり、この春からは横浜の大学の「特任助教」になっている。僕が北海道に旅行した折、2度ほど一緒に食事したことがある。その彼が9月下旬、横浜駅前の高層ビルにあるしゃれた居酒屋に招いてくれた。「僕、給料が多いんです」という彼の言葉を真に受けて、たっぷり飲んで、酔っぱらってしまった。

僕は、教え子に物をもらったり、食事をおごられたりするだけで感激してしまう、なんとも次元の低い「恩師」ではあるが、ふと、わが小学校時代の恩師のことを思い出した。僕は小学生の頃、住まいは大阪だったが、4年生の2学期から6年生までは越境して電車で奈良の小学校に通っていた。

その恩師が晩年、冗談交じりに言っていた。「小学校の教師を40年近くやっていると、担任した子たちは千人にはなる。時折、そのうちの誰かが訪ねて来てはご馳走してくれる。ただし、この子たちは実に堅実でもある。大阪のキタやミナミの盛り場に誘ってくれる子など、ひとりもいない。おごってくれるのは、奈良市内の安いスナックでばかりだ。恩師がワインも酒も飲めなくなってから、キタやミナミに連れて行ってくれるのだろうか」

よし、そうまでおっしゃるならば、と僕は一念発起した。奈良からは離れた北陸の豪華温泉旅館に「クラス会」の場を設定し、用意万端を整えて恩師を招いた。ところが、恩師は直前、体調を崩されて、「音声テープ」のみでの参加となり、まもなく亡くなってしまった。我田引水ではあるが、恩師へのご恩返しはお早めに、という教訓でもあった。