「知らんぷり」は駄目よ

この9月1日は関東大震災からちょうど100年目だった。同日付の新聞各紙の社説を見ると、どこもこのことを取り上げている。社説の長さも普段より長めの新聞が目立つ。ただ当時、流言を信じた人たちによって引き起こされた朝鮮人虐殺については、新聞によって、社説以外でも詳しく報道したり、ほとんど無視したり、態度がかなり違う。

つまり、朝日、毎日、日経はこれを社説の中で取り上げ、再びこのような惨事が起こらないよう訴えている。社説では触れなかった東京も別の面で詳しく書いている。一方、読売と産経の社説(産経の社説は「主張」と称している)は、もっぱら防災面の主張ばかりで、朝鮮人虐殺については全く書いていない。100年という節目の年なのだから、少しでも社説で触れるべきだと思うのだけど、故意に黙殺しているみたいである。

関東大震災時の朝鮮人虐殺とは、当時「朝鮮人武装蜂起した」「放火している」「井戸に毒を投げ込んでいる」といった流言が広がり、これらを信じた自警団や軍隊、警察の一部により多くの朝鮮人が犠牲になった事件のことだ。その数は千人から数千人と言われており、朝鮮人と間違われた中国人、そして日本人も犠牲になっている。

日本人が犠牲になったのは「福田村事件」と呼ばれ、千葉県の福田村(現在の野田市)に香川県からやってきた薬の行商団15人が自警団に襲われ、幼児や妊婦を含む9人が殺された。行商団の人たちは讃岐弁で話していたので、朝鮮人だと疑われたようなのだ。

読売の名誉?のために言えば、この事件が最近、映画になったこともあり、同紙も8月末、これを取り上げ、その中で朝鮮人虐殺についても書いている。ただ、話の中心はあくまで日本人であり、その背景として朝鮮人虐殺が登場するといった感じだ。また、9月1日付の夕刊1面のトップ記事では、大震災の犠牲者の追悼法要などを大きく伝えながらも、朝鮮人虐殺の追悼式典については全く触れていない。

このように、朝鮮人虐殺を無視している趣の読売も、埼玉県在住の僕の目に触れる埼玉版では、短い記事ながら、ちらりと登場したりする。例えば、約60人の朝鮮人が犠牲になった熊谷市では市の主催で追悼式が行われ、市長が出席した、自警団員に殺された朝鮮人青年の追悼式がさいたま市の寺で行われ、市長がメッセージを寄せた、といった具合だ。朝鮮人虐殺を無視する本社の意向が地方にまでは届いていなかった、あるいは地方の記者が造反した、と勘繰りたくもなってくる。

一方、産経は、僕が一生懸命に紙面を繰った限りでは、朝鮮人虐殺は徹底無視といった感じで、逆に「旧軍の救援活動」との記事が出てくる。確かに、軍隊もそうしたかもしれない。ただ、関東大震災当時、軍隊の一部も朝鮮人虐殺に加担したと伝えられているのに、救援活動だけを取り上げられては、ちぐはぐな感じを否めない。

こうした「知らんぷり」は一部の報道機関に限ったことではない。有名なのが小池百合子東京都知事だ。9月1日、東京都の横網町公園で行われた朝鮮人犠牲者追悼式典には今年も追悼文を送らなかった。送付なしは7年連続で、「都としては犠牲となられた全ての方々への追悼の意を表している」「何が明白な事実かについては、歴史家がひもとくものだ」というのが理由とか。何やら意味不明の言い訳だが、朝鮮人虐殺の事実に異を唱える団体もあり、そうしたところからの反発を恐れているみたいなのだ。

知らんぷりは、政府も同じである。松野博一官房長官朝鮮人虐殺の事実について8月末の記者会見で「政府として調査した限り、事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と述べている。朝鮮人虐殺を示す官民の資料が巷にあふれているのに、「政府としては何も知りません」と言っているのと同じである。不誠実極まりないとはこのことだろうか。そして、小池都知事や松野官房長官の言動と、一部報道機関の朝鮮人虐殺に対する態度とは、どこかで「連動」しているみたいでもある。

日本は今、東京電力福島第一原子力発電所の処理水の安全性を世界に訴えているが、それを信じてもらうには、政府の発言が普段から基本的に誠実でなければならないのではないか。それなのに、史実さえ黙殺してしまう日本政府の言うことを誰が信じてくれるのだろうか。処理水放出を理由に日本の水産物の輸入を全面的に止めたりする中国政府のやり方は、理不尽そのものではあるが、わが官房長官の発言を聞いていると、それだって「むべなるかな」と思えてしまうのである。