台湾の「二二八事件」に思う

台北で「二二八国家祈念館」(写真下)というところに入ってみた。由緒ありげな建物は日本統治時代の「台湾教育会館」だそうで、今は1947年に起きた「二二八事件」の背景や経緯、その後などを展覧している。施設は2011年に出来た。入り口には北京語(台湾の標準語)などと並んで日本語の展覧案内や「解読 二二八 日本語版」という小冊子が積んであった。

そう書いてきても、「えっ、二二八事件って、なんのこと?」という人が少なくないだろう。恥ずかしながら、僕も少し前まではそうだった。もらってきた日本語の小冊子などに頼ってその概略を記すと――

1945年、敗戦の日本に代わり、大陸の南京にあった「国民政府」が台湾の管理を引き継いだ。しかし、彼らは「征服者」として台湾に君臨し、まさに略奪をほしいままにした。当時の元凶は、国民政府の蒋介石主席によって台湾に派遣され、行政・立法・司法・軍事の権限を一手に握っていた陳儀台湾行政長官兼台湾警備総司令だった。

悪政のおかげで庶民の生活は窮乏の淵にまで達した。そして47年2月27日、台北の街角でたばこの密売をしていた中年の台湾人寡婦を専売局の役人が見つけ、銃の筒先で殴って気絶させたうえ、有り金すべてを奪ってしまった。翌28日、人々は陳儀行政長官のもとに抗議に押し掛けたが、憲兵が群集に機関銃を向け、数十人の死傷者が出た。騒動が台湾全土に広がった。

これに対して、陳儀行政長官は蒋介石主席に騒動鎮圧のための軍隊派遣を要請した。3月になってやってきた国民政府軍は悪政に抗議する台湾人を暴徒とみなして、有無を言わせぬ虐殺に取り掛かる。裁判も何もない。機銃掃射はもちろんのこと、5人ずつとか10人ずつ、踵(かかと)や手の平に針金を通して数珠つなぎにし、海に投げ込んで殺したりした。とりわけ教員など知識分子を目の敵にし、手当たり次第に処刑した。

これが二二八事件で、殺された人の数について、台湾政府は1万8千人から2万8千人としているが、はっきりとは分からない。10万人という説もある。また、事件に触れることは、国民党政権が敷いた戒厳令の下、長らくタブーとされてきた。二二八事件について語ると、投獄されたりした。

戒厳令は1987年、同じ国民党だが台湾人の李登輝総統によって解除されるまで、延々と続いた。二二八事件の究明が進み始めるのはその後のことである。

話を二二八国家祈念館に戻すと、中に入ってすぐのところにテレビの受像機が置かれ、二二八事件について記録の映像も交えた長さ50分間の劇映画が繰り返し放映されていた。下の写真はその一場面である。いきなり自宅などから引き立てられ、「罪状」も何もなく処刑されていったという。

2階に上がると、さまざまな資料が展示されていたが、なかでも「蒋介石 2.28 元凶」(下の写真)という派手な横断幕が目を引いた。おそらく事件の真相究明を求めるデモで使われたものだろう。事件当時、彼はまだ台湾にいなかったが、「元凶」であることは間違いない。

ところで、ここから歩いて10分ほどのところに、彼を顕彰する「中正祈念堂」(蒋介石の本名は蒋中正)がある。ここも国の施設である。同じ国の施設が同じ人物を一方では褒め、一方では糾弾している。矛盾はしているけれど、このあたりが戒厳令が解除され民主主義になってまだ30年ほど、そんな台湾の言論の自由の「若々しさ」を表しているみたい。僕にはそんな感じがする

二二八国家祈念館からやはり歩いてそう遠くないところに、「台北二二八祈念館」(写真上)というのがある。国家祈念館は国の施設、これは台北市の施設で、国よりも早く1997年に出来た。日本統治時代はNHK台北放送局だった。二二八事件当時はここから情報が台湾全土に流れたそうだ。

ここにも日本語の展覧案内があり、加えて無料の日本語音声ガイドまでがあった。このガイドやさっきの日本語の小冊子のおかげで、僕はカネをかけずに二二八事件について、かなり詳しくなってしまった。

で、思うのだけど、長年にわたる戒厳令が解除され、台湾が民主化に向かったのが1987年である。二二八事件もタブーではなくなった。一方、それから間もない1989年6月4日、大陸の北京では「六四天安門事件」が起きる。民主化を求める学生たちに人民解放軍が襲いかかり、多数の死傷者を出した。

中国共産党は「事件による死者319人」と発表したが、本当の死者数は不明である。1000人とも3000人とも、あるいは数万人とも言われ、そして、この事件そのものが以後、共産党によって、公には語ることもできないタブーとされてしまった。もちろん、学校で教えられることもない。

この30年ほど、台湾と大陸の中国は「言論の自由」ということでは、まさに正反対の方向に進んでいる。台湾の二二八国家祈念館でもらった日本語のパンフレットの見出しは「人々の力がタブーを破る」だった。いつか大陸の中国でもそういうことが起こりうるのだろうか。ついそんなことを考え込んでしまった。