台湾で「裕仁皇太子」「児玉源太郎総督」に会うの記

台北市から高速鉄道(台湾版「新幹線」)で南に1時間半ほどの台南市――台湾で最も早くから開けたところで、日本統治時代(1895〜1945年)の建物もたくさん残っている。そのひとつで、1900年(明治33年)に建てられた「元・台南州知事官邸」(写真下)に行ってみた。ここは当時、日本の皇族が台湾を巡視する際の宿泊所にもなっていた。昭和天皇裕仁皇太子と呼ばれていた1923年(大正12年)に訪れ、1泊している。

その知事官邸の2階。なにげなく入った部屋に、等身大の写真パネルが置いてあった。正装の裕仁皇太子である(写真下)。

台北市での宿泊先が僕のために「台南市政府観光旅遊局」から日本語の観光案内をいくつか取り寄せてくれていた。そのひとつはテーマが「日本統治時代の台南を偲ぶ旅」だった。「元・台南州知事官邸」のほか「元・台南州庁」「元・台南師範学校」「元・台南第一公学校」など、今も使われている建物が当時と現在の写真つきで紹介してある。

でも、「偲ぶ」とは、たとえば「過ぎ去ったことを懐かしむ。それも賞賛の気持ちで思い出す」といった意味である。日本統治の時代をそう簡単に偲んでもいいのかな? そうも思うけど、観光案内の目玉はなんと言っても裕仁皇太子である。

裕仁皇太子 台湾周遊ルート 大正12年4月16日〜4月27日」と題して、「東宮行啓」の行程を示した台湾の地図と、皇太子の正装の写真が冒頭に掲げてある。皇太子が台南市に滞在したのは、4月20日と21日の2日間だが、その行動も分刻みで記されている。

「20日12:33 台南駅」「12:40 台南御泊所(当時は台南州知事官邸)」「13:20 台南州庁(現在の国立台湾文学館)」・・・「14:08 南門尋常小学校(現在の建興中学校)」・・・「15:38 台南第一中学校(現在の台南二中)」「台南ご宿泊(台南州知事官邸)」

「21日08:40 台南御泊所→」「09:05 安平製塩会社埋立地桟橋から乗船」「09:35 安平製塩会社塩田」・・・「11:35 歩兵第二連隊(現在の国立成功大学光復キャンパス)」「12:18 台南駅→高雄へ」

――といった具合である。僕もこれに沿って台南市内を歩き、まず裕仁皇太子に遭遇したわけだ。そして、この行啓の目的は「皇室儀礼を通じて天皇制を強化することにより、世界の民族自決の風潮及び国家主義の潮流に対応すること」「在台日本人の皇室に対する忠誠を手本として示すことにより、台湾本島人を『忠実なる帝国臣民』へと導くこと」である、と淡々と記されている。

台南市から台北市に戻り、国立台湾博物館(写真上)で、第4代台湾総督だった児玉源太郎(1852〜1906年)と、児玉に招かれて総督府民政長官を務めた後藤新平(1857〜1929年)の銅像(写真下、向かって右が児玉、左が後藤)を見たときにも、ちょっとびっくりした。

児玉と後藤がそれぞれ総督と民政長官を務めたのは1898年から1906年までの8年間で、遅れていた台湾の鉄道、道路、港湾、上下水道などインフラの整備を進めたほか、衛生環境の改善にも務めた。

そして、銅像につけられた説明によると、この国立台湾博物館の建物はもともと、ふたりの台湾での功績をたたえる「記念博物館」として1915年に建てられた。銅像も1階のホールに置かれていたが、1945年の日本の敗戦後、国民党政府がこれを撤収し、倉庫に保管していた。

しかし、博物館そのものが創立100周年を迎えた2008年、倉庫から出され、展示室の一隅に再び陳列された。僕が台湾側の責任者なら「もう60年以上も放っておいたんだ。今さらいいんじゃないか」とでも言ったかもしれない。銅像は1年前に僕がこの博物館を訪れた際にもあったはずだが、見落としている。

銅像の周辺には、日本統治時代に台湾の博物学の発展に務めた人たちをそれぞれたたえる文章と大きな顔写真も並んでいた。台湾人もいるが、ほとんどが日本人で、川上滝弥、菊池米太郎、岡本要八郎、堀川安市、尾崎秀真・・・現代の日本ではほとんど忘れられた人たちだろう。しかし、博物館長だった川上は心労がたたり1915年、博物館が新しい建物に移った翌日に44歳で急死したことを惜しまれ、尾崎は「全能の文人」と賞賛されている。

裕仁皇太子にしろ、児玉源太郎後藤新平やそれにつながる人たちにしろ、台湾人が日本統治時代の日本人を評価する際には、色眼鏡を通したりはしないで、「歴史は歴史として見る」という視点を貫いている気がする。