麻生太郎君の悪口ばかりは言えない

自民党麻生太郎という老爺がまたまた物議をかもしている。最近、老爺の選挙区でもある九州は福岡県での講演で、上川陽子外相について「そんなに美しい方とは言わんけれども、英語できちんと話をし、外交官の手を借りずに自分でどんどん会うべき人に予約を取っちゃう」「俺たちから見てても、このおばさんやるねえと思った」などと話したのだ。

老爺は上川外相の仕事ぶりを褒めたつもりなのだが、その際に女性の容姿・外見に触れるなんて、全く余計なことである。「おばさん」などと女性政治家を揶揄(やゆ)するのも、これまた余計である。結局、老爺は数日後、「容姿に言及したことなど表現に不適切な点があったことは否めず、撤回させていただきたい」との談話を出した。

この老爺、麻生太郎氏は調べてみると、1940年(昭和15年)の生まれ、今83歳である。実は僕も同年の生まれで、誕生日もあまり違わない。政界の重鎮のようだが、今後「君」付けで呼ばせてもらおう。で、我々が生まれた当時はどんな世の中だったのか。日本は中国侵略の泥沼から抜けられず、1年後の1941年には米国ハワイの真珠湾を奇襲攻撃して、破滅へと向かって行った頃である。それはそれとして、当時の女性には「選挙権」というものがなかった。「国民」として認められていなかったのだ。女性が選挙権を得たのは、日本が戦争に負けた後の1946年になってからである。

そんな頃に生を受けた麻生君が女性に対して差別発言をするのは、同い年の僕としては、なんとなく分かるような気もする。いま70歳の上川外相を「おばさん」と呼んだけれども、「老婆」とまでは言わなかったのは、いくらか評価?してあげたい気もする。

僕は1963年(昭和38年)に学校を出て、朝日新聞の記者になった。老爺も同じ頃に社会人になったはずである。で、その頃の社会の「女性差別」の状況はどうだったのか――僕が就職した朝日新聞社の例で言うと、同期入社の50人以上の記者のうちで、女性は1人だけだった。入社試験は女性も平等に受けられたはずだし、女性の記者志望が極端に少なかったわけでもないだろう。ただ、上司に聞くと、「わが社は基本的には女の記者は採用しない。もっとも、入社試験の成績が飛び抜けてよくて、落とすと問題になりそうな場合は、女でも仕方なく入社させる」とのこと。一応は「進歩的」だと言われる朝日新聞社でもこんな状況だった。

つまり、記者は「男の仕事」という、とりわけ根拠もない固定観念が社内には根づいていて、僕も特に疑問を感じなかった。一方で今、麻生君の暴言を厳しく批判しているのは、新聞の中ではもっぱら朝日新聞である。それは正しいことだと思うし、女性記者の数が増えてきたことも、影響しているのだろう。昔のことを思うと、僕はまさに汗顔の至りで、麻生君の悪口ばかりは言えないのである。

ところで前回、僕はこのブログで、毎日寝る前には池波正太郎氏の『鬼平犯科帳』(文春文庫)を愛読していると書いた。で、この本は面白いことは面白いのだけど、男が女の容姿などを悪く言う表現には事欠かない。例えば――

鼻すじがくぼんでいるくせに鼻頭や小鼻がもりあがり、(それにどうだ、こいつの鼻の穴の大きいことといったら……鼻にも目玉がついていやがる)……

むかしは、小肥り(こぶとり)の、よくよく見れば、さほどにみにくい女でもなかったお熊であったが、七十をこえたいまは、凧の骨のように痩せてしまい、……
「たのむぜ、破れ凧の歯抜け婆あ」……  女ともいえぬ、先ほどの老婆……
「女という生きものに、理は通らぬ」……

いやはや。さすがに出版元も本の末尾にお断りを載せている。本作品の中には、今日からすると差別的表現もあるが、「それは江戸時代における風習、慣行にもとづく歴史的事実の記述、表現であり、……」というものだ。と申しても、この言い訳はいささか苦しい。

つまり、これは江戸時代の作品ではなく現代、それも戦後の作品である。「歴史的事実」云々なんて、おかしくはないの? むしろ、1923年(大正12年)生まれの池波氏の、麻生君もびっくりの女性観が、色濃く出ているのではないだろうか。ついては、麻生君の今回の発言は、これからは厳に慎むことを条件に、大目に見てあげてもいいと僕は思ってしまっている。