快眠vs.寝酒

僕は毎夜、寝床に入ると、まず「極楽じゃ、極楽じゃ……」と、何度かつぶやくことにしている。そうすると、いつの間にか眠ってしまっている。睡眠のための「呪文」のようなものかもしれない。この「極楽じゃ」は僕自身が考えたものではない。僕と同年配の知人の母親が昔々、夜の寝床で唱えていたという話を聞き、真似するようになった。

何しろ、当時は太平洋戦争の頃である。この母親は何人もの幼子を抱え、朝早くから炊事、洗濯、掃除……田畑があるので、農作業もある。おまけに、夫は戦争に取られ、いつ戻ってくるか、分からない。毎日、毎日、くたびれはてて、夜に横になるのが唯一の楽しみ。思わず「極楽じゃ、極楽じゃ」という声が出たのだろう。

日々、のうのうと暮らしている僕が同じ言葉を唱えるなんて、まことに申し訳ないのだけど、ただこの呪文だけでは、朝までぐっすりの「快眠」とまではいかない。夜中に2度、3度、トイレに行きたくなって目が覚める。理由は自分でも分かっている。毎夜、布団に入る直前まで、ウイスキーオン・ザ・ロックを「寝酒」と称して意地汚く手にしているせいなのだ。僕は「快眠」を求めているだけなのだが、寝酒は睡眠そのものにとって、決していいものではないらしい。

去年、訳書が出たスウェーデン・ウプサラ大学の睡眠研究者クリスティアン・ベネディクト氏の著書『熟睡者』の中で同氏は「アルコールを摂取すると、たいてい、通常より早く眠りにつける。その一方で、……いびきをかくリスクが高まる。加えて、汗をかきやすくなり、繰り返し目が覚めたり、睡眠中に呼吸が何度も短く止まったりする可能性もある。また、アルコールは胸やけの原因にもなるため、睡眠がさらに損なわれる。……悪夢をともなうこともある」などと、寝酒を批判している。

また、月刊『文藝春秋』は最近号で、睡眠について特集しているが、その中で筑波大学の睡眠学者柳沢正史氏も「お酒を飲むのは、夕食時の晩酌までにしましょう。……禁物なのは寝酒です。世界的に見ても、日本は寝酒をする人が極端に多いことで知られています。……飲酒直後の睡眠中の脳波を測ってみると、睡眠の質は本当にガタガタになっています。深い睡眠も減り、中途覚醒時間も多くなる。夜、お酒を飲まないと眠れないと言う人は、すでに不眠症と言えるので……」と、寝酒に厳しい。

ところで、寝酒の話はひとまず置いて、ふと昔、高校生の頃、試験の前日なんかに飲んでいたトランキライザー向精神薬)のことを思い出した。当時、流行していて、アトラキシンという商品名も覚えている。新聞によく広告が載っていた。これを飲むと、それこそグッスリと朝まで眠れた。大学に入ってからは、勉強そのものをあまりしなくなったので、アトラキシンとは縁が切れたが、高校時代のあの「快眠」はまだ脳裏に刻まれている。

今も似た薬がないものか。薬局で尋ねてみたら「睡眠改善薬」なるものを勧めてくれた。6錠入りの1箱が2000円ほどと、いいお値段だが、飲むのは1日に1回、1錠だけ。これを飲んでいる知人に聞くと、なかなかに優れものだそうだ。さっそく買ってきた。

ところが、いざ飲もうとして「使用上の注意」を読むと、「服用前後は飲酒しないでください」とある。ウーム、もしこれを無視して、飲酒したらどうなるのか? ネットでいろいろ調べていると、「最悪の場合、呼吸停止の恐れもあります」とまで書いてある。まさに、命懸けである。もちろん、そうまでして「快眠」を求めることはない。ついては、せっかくの睡眠改善薬も薬箱に眠ったままになっている。

じゃあ、ほかには「快眠」のための方法はないものか。さっきの柳沢氏の話を読むと、「自分に合った入眠儀式を作る」というのがあった。僕の場合、これは「極楽じゃ」が相当する。次に「読書をする」というのもあった。僕はこのところ寝る前、池波正太郎氏の『鬼平犯科帳』を読むことにしている。ひとつの話が50ページほどで終わるから、就寝前の読書にはちょうどいい。肩も凝らない。

温かくしたウイスキーやブランデーを少しだけ飲むのなら、寝酒もOKという説もある。でも、ほんの少しじゃ全く楽しくもない。僕は別に不眠で困っているわけではない。寝酒がいくらか睡眠を妨げていても、「極楽じゃ」と「鬼平」のおかげか、まあまあ眠れる。「準快眠」といったところか。いっそのこと、生きている間は「快眠」はあきらめ、この程度で満足している方が人生は楽しいかもしれない。