新型肺炎 逃げる人たち 逃げられない人たち

中国の湖北省武漢市から始まった新型コロナウイルスによる肺炎が猛威を振るっている。中国によく出かける僕も、この年末から年始にかけては台湾にいて、新型肺炎には遭遇しなかったが、2002年から03年、やはり中国でSARS重症急性呼吸器症候群)が流行した折には、その渦中にいた。今度の新型肺炎をきっかけに、SARSのことが脳裏によみがえってきた。

そのころ、僕は中国の北の端、黒竜江省ハルビン市の大学でボランティアの日本語教師をしていたが、この大学では03年の4月末以来、1万数千人の学生たちは校門から一歩たりとも外に出ることが許されなくなった。学校封鎖である。学生が市内をうろついた揚げ句、SARSを校内に持ち込んだりさせないためという説明だった。市内の他の大学でも同じ措置が取られた。

中国の大学では学生は原則、校内の宿舎で寝起きしているから、校外からのSARS侵入を防ぐには効果的なやり方だった。ただし、教師は出入り自由だったから、どこか間が抜けた措置でもあった。

当時、この大学にいた日本人の同僚教師は20歳代の女性が2人、国際協力機構(JICA)から派遣された30歳代の男性が1人、そして新聞社を定年で辞めてやってきた年寄りの僕という、合わせて4人だった。

今のように日本政府がチャーター機をうんぬんといった話は全くなく、また、SARSが蔓延している中国南方とは違って、北方のハルビンの街はまだ静かだった。役所の発表では、黒竜江省には「疑似」の患者が数人いる程度だった。そして、SARSが終息するまで、日本に逃げ帰るか、あるいはハルビンにとどまっているか。その判断はすべて僕たちに任されていた。

そうこうしているうちに、女性教師の1人が「両親が帰って来いと言うので」と、帰国の準備を始めた。JICA派遣の男性教師も「本部から一時帰国の指示が出た」と言う。結局、もう1人の女性教師と僕の2人が残ることになった。教師の人数が減っても授業の数は減らないから、残った2人は結構忙しくなった。手のかかる日本語の作文の添削は量が2倍になった。

僕が一時帰国しなかったのは、ひとつには「学生が逃げられないのに、教師だけが逃げるわけにはいかない」と思ったからだったが、もっと強かったのは「せっかくの機会だ。SARS流行の一部始終を見届けたい」という気持ちのほうだった。この『なんのこっちゃ』はすでに書き始めていたが、当時は今と違って朝日新聞の電子版に連載していた。読んでくれる人は今よりもずっと多かったはずだ。だから、もし僕がSARSにかかったら、貴重な体験を広く伝えられる。一種の特ダネである。そんな「スケベ心」あるいは「功名心」のようなものが働いていた。

だが、幸か不幸か、そうした体験をすることもなく、SARSはほどなく終息してしまった。日本に戻っていた2人の教師も「皆さん、お元気でしたか」と、あっけらかんとして授業に復帰した。

ただ、僕にとっては、ひとつの「オチ」があった。あるとき、学生の日本語の作文を添削していたら、女子学生の作文の中に「SARSが流行しているのに、岩城先生は日本に戻らないと聞いて、うれしくなり、泣いてしまいました」というのがあった。僕も少し目頭が熱くなった。

彼女の気持ちを推し量ると――自分はどうしてもここから逃れられない、なのに、日本人の教師は自由に逃げられる、不公平ではないか――まずそんな葛藤があり、僕が逃げないことに心を動かされたのではないだろうか。

今回の新型肺炎では、日本政府がチャーター機を飛ばして、武漢在住の日本人を次々に帰国させてきた。すでに新型肺炎にかかっている人もいたが、患者があふれている武漢では十分な治療を受けられなかっただろう。帰国できたのは何よりのことである。

でも、以下は僕の勝手な想像だけど、この人たちの中には現地の日系企業で幹部だった人も多いだろう。当然、中国人の部下もいたはずである。だが、彼らは武漢から逃げ出すことができない。日本人の上司だけが脱出してしまった。どんな気持ちだっただろうか。日本人の帰国を知った普通の武漢市民はどう思うだろうか。

もし今、僕が武漢にいて、中国人と一緒に何かの仕事をしていたら、どうするだろうか。逃げるだろうか、とどまるだろうか。SARSのときに経験した、ちょっとしたことがあるだけに、つい気をまわしてしまうのである。