薄れゆく?日本の影

昨年末の日曜日、大阪からのフェリーで着いた上海で、何年ぶりかで豫園に行ってみた。豫園は明代に造られた庭園で、上海の観光名所の一つである。たまたま学校時代の友人から来たメールに豫園散策のことを書いて返事したら、「きっと日本人もいっぱいだったんだろうね」と言ってきた。

おやおや、失礼ながら、時代後れ?もはなはだしい。今の中国では日本人観光客はあまり見掛けない。内外の観光客でごった返す休日の豫園でもそうだった。ビジネスマンらしい二人が日本語で話しながら足早に通り過ぎていったが、日本人と言えばそれだけ。一緒にいた塾の生徒が「先生、日本人の団体客もいますよ」と言うので、嬉しくなって近づいてみたら、韓国人だった。欧米人もいる――と言うより、ぐるりと見渡すと、どこかに彼らがいた。土産物屋を覗いたら、年配の店員が日本語で話し掛けてきた。なぜか申し訳ない気持ちになった。

中国に来るために大阪から乗ったフェリー「蘇州号」の船員は中国人だが、ちょっと前まではなんとか日本語を話せていた。ところが、日本語を話せる船員が急激に減ってきたように感じる。今回、まともに日本語が通じたのは、顔見知りの古参の男性船員だけだった。

ある時、フロントに一人でいた女性船員に日本語で「いま風呂は開いていますか」と尋ねてみた。このフェリーには大きくはないが銭湯のような「展望風呂」がある。大海原を見ながらの入浴――なんとも気持ちがいい。ところが、彼女はやおら両手を広げて上下に大きく振った後、指でバツ印を作った。「船がかなり揺れているので、今日は風呂は駄目です」の意である。まあ、僕の質問が分かってくれただけでもありがたいし、ボディーランゲージとしては悪くはないけど、仮にも週に1回、日中間を定期的に往復しているフェリーである。少しは日本語を話してくれてもよさそうなものだ。

もっとも最近、このフェリーで見掛ける乗客は、関西在住の中国人家族とか、工場などでの技能実習で日中間を行き来する中国人の若者とか、そういったところが中心だ。日本人客は、僕みたいな偏屈そうなおじいさんが一人旅をしていたりはするけれど、大変に少ない。船会社としても、日本語のできる船員を採用する必要が減っているのだろう。船内のレストランで注文を取りにくる船員も完璧に日本語を話さないのがいる。数字ひとつ言えなかったりする。

ひと月ほど滞在した梧州には、梧州学院という3年制の大学があり、日本語科も設けられている。その日本語科の女の先生を食事に誘った。彼女は僕が桂林の大学にいた頃の教え子で、ここの教師になった時、20人ほどの学生に囲まれた楽しそうな写真を送ってくれた。日本語を学ぶ学生たちの状況を聞きたかった。

ところが、話はさえないものになった。この学院の日本語科の学生はいま3年生がゼロ、2年生が7人、1年生がゼロ。日本語科は壊滅状態である。どうしてなの?と聞くと、「募集しても学生が来てくれません」と、頼りなげな返事。なぜ来ないのか、本当の理由は分からないけど、それでも日本語の教師は3人いて、英語科の学生に「第二外国語」として日本語を教えているとか。これは風の便りに聞いたのだが、10年以上前にハルビンの大学で教えた女性が教師をしている西安の大学でも、日本語科へ学生が来なくなったので、日本語教師が次々に首になっているそうだ。

南寧で、かつての住まいの近くにある日本料理店に生徒二人を連れて出掛けた。2年ほど前にできた店で、僕もちょくちょく通っていた。で、入り口に近づくと、何やら気分が悪くなるような臭いが店内から漏れてくる。「秋田」という店の名前は変わっていないし、外壁には「寿司」「刺身」なぞと書かれていたが、入り口にはさらに大きく(日本語に訳すと)「無国籍料理バイキング」とあった。嫌な臭いはそのせいである。とても入る気にはならなかった。南寧にはもともと日本人が少なくて、この店の日本人客も僕ぐらい?だったから、そう嘆くこともないのだけど・・・。

話の舞台は変わって、東京・新宿の都庁舎の地下――ここには夜半、ねぐらにしているホームレスの人たちが多い。ある日の夕刻、中国人15人ほどがやってきた。老若男女、子供もいて、どうやら3家族からなる観光客のようだ。中国人はよく家族連れで旅行をする。そして、彼らはやおら紙袋から靴下を取り出し「一点心意」(ほんの気持ちですが)と言いながら、20人ほどのホームレスに1足ずつ配り始めた。お国柄か、中国ではホームレスをめったに見掛けない。そんなこともあって、日本のホームレスを気の毒に思ったのだろうか。「どうも、どうも」「ありがとう」。中国語と日本語が都庁舎の地下で行き交った。

中国における「日本の影」と、日本における「中国の影」――どうも対照的ではある。