逃げるべきか とどまるべきか

実はつい最近、同じ広西チワン族自治区の中ながら、わが「東方語言塾」を桂林市から南方へ400キロ余りの南寧市に移した。そのため『なんのこっちゃ』のタイトルも少し変え、今回はその話から始めるつもりだったが、やはりこの時期は「東日本大震災」にからんだ話から――

大震災の後、日本から故国へ避難する外国人が増えている。日本には今、外国人としては在日韓国・朝鮮人を除けば中国人が圧倒的に多いから、逃げる外国人と言えば当然、中国人が目立ってくる。「新潟空港からは某日、1700人の中国人が臨時便で帰国した」「上海浦東空港には5日間で1万人の中国人が日本から戻ってきた」「中国への航空料金が4倍に高騰した」なんてことが日本で報じられる。

日本から逃げる中国人はじめ外国人の気持ちもよく分かる。勤めていた工場が津波で流されてしまった、働く所がなくなった。そんな事情なら帰国も仕方がないだろう。でも、被災地ではあっても、留学していた若者が、あるいは、北海道や東京、名古屋などにいた人たちが、先を争って帰国する。なんか、すっきりしない。例えば、留学していたのなら、この震災は「日本」を知る絶好の機会ではないの? なんで、みすみすそれを捨ててしまうの?

で、思い出したことがある。2003年の春だった、中国でSARS(新型肺炎)が流行した時のことである。当時、僕はハルビン理工大学の日本語科でボランティアの教師をしていたが、SARZの蔓延とともに大学は封鎖され、学生たちはキャンパスから一歩たりとも外に出られなくなった。日本とは違って、学生たちはもともとキャンパス内の宿舎で生活していたのだが、外出できないとなれば、これまた不自由なものである。塀を乗り越えて外出する学生も結構いたが、見つかると、氏名、罪状、処分内容がでかでかと張り出された。

ところで、同僚の日本人教師は20歳代の女性2人と30歳代の青年海外協力隊員の男性だった。教師たちは外出も許され、不自由はなかったが、ある日、女性教師の1人から「両親がうるさいので、SARSが収まるまで日本に帰っています」と告げられた。男性の青年海外協力隊員も「上の方からの指示で」と言って帰ってしまった。エッ、こういう時にこそ頑張るのが青年海外協力隊の役割ではないの? そう思ったけど、僕にはどうしようもない。2人が担当していた授業はどうするのか。そんなことはお構いなし、の脱出だった。

結局、僕と女性教師の1人だけが残ることになった。彼女の考えを聞いたことはなかったが、僕が残ったのは何も立派な考えがあったからではない。まず、春節旧正月)に一時帰国したばかりなのに、また帰国するなんて、面倒くさかった。カネもかかる。学生が逃げられないのに、教師だけが逃げるなんて筋が通らない、という気持ちも少しはあった。それに、もしSARSにでも罹ったら、それはそれで面白い。日本のどこかの新聞か雑誌に手記でも売り込めるかもしれない。元ブンヤのスケベ根性のようなものもあった。が、幸か不幸か、そんなことも起こらないうちに、さしものSARSも収まってしまった。

日本に逃げ帰っていた2人もハルビンに戻ってきた。そして、卒業記念写真(こちらの卒業式は7月)に学生とともににこやかに収まっていた。

まあ、そういうこともあったから、東日本大震災で故国に逃げ帰る中国人はじめ外国人には何か違和感のようなものを覚えてしようがない。でも、逃げるのはその人の自由だから、そんなことを言うのはいけないのかなあ。少し前のニュージーランド地震でも、無事だった日本人が逃げ帰って来たではないか。

そんなことを思っていたら、在日の中国人ジャーナリストの莫邦富という人が『ダイヤモンド・オンライン』というサイトに書いた記事にお目にかかった。それによると、大震災後、彼のところには、中国に逃げたいが飛行機のチケットが手に入らない、助けてほしい、という中国人からの相談がいっぱい来ている。それが女性からの場合は、莫さんはいろいろ助けているが、男性からだと「男であるならば、こういう時期にこそ、私たちが負うべき社会的責任を果たすべきだ」と叱咤しているそうだ。つまり「日本にとどまれ」と言うのだ。なかなかの「人物」もいるものだ。

SARSの時に中国にとどまった僕も「人物」であるなぞというつもりは毛頭ない。だけど、あの後、ある女子学生が書いた作文を添削していたら「岩城先生がSARSでも帰国なさらないと聞いた時、私は思わず泣きました」というくだりがあった。へぇ〜 僕でも人を感動させられることがあるんだ。嬉しくて、照れくさくて、こちらも涙が出そうになった。

で、今回の震災の際には僕は中国にいてまったくの無傷である。ノホホンとしている。なんの社会的責任も果たしていない。今度一時帰国する折には、どの面(つら)下げて戻ればいいものやら、と思案している。