いま一度「石の上にも三年」

前回にも少しだけ書いたが、日本語、韓国語、中国語を教えるわが「東方語言塾」は先月、引っ越しをした。この3年余りの間で引っ越しは2回目だ。1回目は同じ桂林市内だったが、今回は桂林から南へ400キロほどの南寧市へ移った。汽車が定刻通りに走ってくれれば、桂林から5時間ほどの所だが、6時間やそこら掛かることも珍しくはない。所要時間だけで言えば、東京―九州間ほどの引っ越しである。大型トラック1台に教室の机や椅子、黒板、本棚などを積んでやってきた。下の写真は鉄道の南寧駅。なんの変哲もないところが特徴と言えば特徴だろうか。

南寧は日本人にはなじみの薄い町だが、桂林とともに広西チワン族自治区に属し、日本流に言えば、その県庁所在地である。桂林の都市部の人口は60万か70万あたりだそうだが、ここは250万かそこらはあるようだ。中心部には高層ビルが林立し、一見、立派な大都市である。この南寧からさらに南へ汽車かバスで3時間ほど走ればベトナム国境に到達する。

南寧の紹介は追い追いするとして、今回の引っ越しの理由だけど、わが能力や努力のほどを棚に上げて言えば、桂林では将来性が乏しいなと思ったからだ。3年余り前に桂林で塾を始めた時、街中には英語学校、日本語学校、韓国語学校が合わせて10やそこらはあった。ライバルたちを時々覗いてみたりもした。ところが、いつの間にか、それらがほとんど姿を消してしまった。看板は残っていても門が閉まっている。どこに行ったのだろうか? 

ひとつ、思い当たることがある。桂林の街中ではこの数年、学生の姿がめっきりと減った。その大きな理由は広西師範大学、桂林理工大学という、街中にあった大学がバスで1時間も掛かる田舎にキャンパスを移してしまったことにある。これまでのキャンパスも残ってはいるが、両大学の外国語学科も消えてしまった。街中の外国語学校の生徒は大学生ばかりではないが、学生がいなくなるのはやはり何かと影響があるだろう。外国語を学ぼうという雰囲気が街中に乏しくなってしまったような気がする。

で、場所を変えなければと思ったけど、上海だの、広州だの、あるいは北京だのといった所へは行きたくない。第一、桂林からは遠すぎるし、空気だってものすごく悪そうだ。それに何よりも、年金を投入して赤字を補っているわが塾である。そんな巨大都市でやる資力もない。じゃあ、南寧あたりが手ごろかなあ。人口は桂林の何倍かはあるし、街中に学生も多いようだ。ここもけっこう埃っぽいそうだが、我慢できないこともなかろう。400キロくらいなら、机や椅子などもトラックで運べそうだし・・・まことに安易な理由でこの町にやってきた。

新しい塾は、この広西チワン族自治区の最大の大学である「広西大学」の正門近くに構えた。この大学の学生数は約3万5000人とか。もちろん日本語科があるし、田舎に移転する計画もないらしい。近くにいれば、何かいいことがあるかも知れない。しかも、この辺りには大学がもう一つある。「ナントカ技術学院」「カントカ財経学院」なぞといった「学院」もたくさんある。言わば、3年制の大学である。ここらからも生徒が来てくれるかも知れない。まるでコバンザメである。

嬉しいと言うか、「誤算」もあった。桂林で「かくかくしかじかの理由で桂林の塾は閉鎖し、南寧に移ります」と生徒たちに告げると、「じゃあ、わたしも南寧に・・・」と言うのが何人かいたことだ。例えば、桂林の広西師範大学を出た後もわが塾にいた2人の女性――春節旧正月)で北方の山東省、吉林省に戻っていたが、3月には2000キロ、3000キロを旅して南寧までやってきた。わが塾で「日本語の仕上げをする」と言っている。ほかにも3人、4人・・・桂林の住まいを引き払い、蒲団を担ぎ、わずかな衣類を手に南寧に現れた。塾の近くに3部屋のアパートを借りて共同生活を始めたりしている。

かくして新「東方語言塾」は3月下旬にオープンした。これも日本流に言えば3LDKのアパートを2軒、教室兼住居として借りた。こちらのLはけっこう広く、20人くらいの生徒を入れられる。ただし、生徒は今のところ桂林からくっついて来た6人だけ。南寧でも大学のキャンパスにポスターを張ったり、チラシを配ったり、きわめて原始的な方法ながら、生徒を募集し始めているが、新しい生徒はまだ誰もいない。まあ、そのうちに次々?とやってくるだろう。

生徒の一人が上の写真のようなものを作ってくれたので、塾の入り口に張った。中国の国旗がやや大きめなのは、たまたまそうなってしまっただけ。「了解」「和平」は中国語で、日本語とはちょっと意味・ニュアンスが違う。日本語で言えば「お互いによく知り合えば、平和がやってくる」といったところだ。まあ、いずれにしろ、この初めて住む町でもう一度「石の上にも三年」と思っている。