隣人の「死去」を知らずに「不義理」も

わが家の玄関先からぼんやりと道路側を眺めていた。すると、70歳代の夫婦が暮らす筋向かいの田中さん(仮名)宅の様子がおかしい。黒い服を着た数人が家に中に入って行く。「骨箱」のようなものも見える。家の前に止まっている車の中に人影が見えたので、寄って行って「失礼ですが……」と尋ねてみると、「母が亡くなりました」とのこと。車中の人影は、長らく会っていないが、この家の次男だった。田中さん宅とはもう数十年来の付き合いである。慌ててお悔やみに行った。

仲のいい夫婦で、わが家2階の僕の部屋からは、二人で車に乗って出かける姿をちょくちょく見かけていた。その夫の話によると、2週間ほど前の昼食後に妻が突然倒れた。救急車を呼んで入院させたが、退院もかなわぬまま、亡くなってしまった。心筋梗塞だった。夫は「私は妻がとても好きでした。長患いのあとだったら、まだ少しはあきらめもつくのですが……」と、涙にくれていた。

わが家にはそれを誰も知らせてくれなかったから、つい失礼してしまった。ほかの近所の人はどうだったのか。まずは向かいのAさん宅に電話してみた。田中さんの隣の家である。かなり前に両親を亡くした50歳代の女性が独り暮らししている。彼女も「全く知りませんでした」と驚いていた。

ついで、わが家の右隣のBさん宅に電話すると、ここはちゃんと知っていた。それどころか、市の斎場であった通夜には、わが家の左隣のCさんと一緒に行ってきた。「お宅は見えませんでしたね」。そう言われても、知らなかったのだから仕方がない。Bさんたちは田中さん宅に救急車が来たのを知っていて、成り行きに注意していたらしい。わが家はたまたま留守していて、救急車のことさえ知らなかった。

そのBさんは電話口で「ところで、山田さん(仮名)の奥さんも亡くなったのをご存知ですか。もう2か月近く前のことで、自治会の会報にも載っていましたけど……」とおっしゃる。えっ、それも知らなかった。山田さん宅は田中さん宅からわが家とは反対の方に隣の隣である。80歳代の夫婦が暮らしていた。こことも数十年来の付き合いである。慌ててお悔やみに行った。

普段はやや気難しそうな夫だが、亡くなって2か月近くになるせいもあるのか、淡々と話してくれた。妻はまず、乗っていた自転車から落ち、骨折して3か月ほど入院していた。退院して「やれやれ」と思っていたら、今度は末期の癌が見つかり、亡くなってしまった。

田中さん宅、山田さん宅のように、最近は近所の人が亡くなったことを知らず、すぐには駆けつけないで不義理をしてしまうことがたまにある。ひとつには、わが団地の自治会が会員の訃報を詳しく知らせなくなったことがある。

以前は、誰かが亡くなると、その都度、姓名、所番地、通夜と葬儀の予定、喪主、さらには死因を団地内の掲示板に張り出していた。ところが、今は姓名と亡くなった日や年齢が月1回の会報に載るだけである。「個人情報保護」のためらしく、遺族の意向でその簡単な訃報さえ載らないこともある。会報の死亡記事にいち早く気づいたとしても、例えば、「〇〇 〇子さん」だけだと、どなたなのか、特定しづらいことがままある。よほど親しかったなら別だが、〇〇さん宅の妻や夫の名前までは知らないことが、結構あるからだ。

個人情報うんぬんに加えて、コロナ禍のせいもあって、「家族葬」が増えるなど、葬儀が随分と簡便になってきたようだ。それはそれで悪くはないのだけど、以前、東京・築地本願寺の僧侶から聞いた言葉をふと思い出した。「家族葬は簡便でいいのですが、あとで『知らなかった』などと言って、個別に弔問に来る方が必ずいらっしゃいます。遺族にとって結構煩わしいです。ですから、弔問に来てくれそうなところには、最初から案内を出し、それなりの葬儀をしておいたほうが、結果的には楽です」。お寺の「営業政策」も絡んでいるのかもしれないが、それなりにもっともな話ではある。

じゃあ、僕の場合はどうしようか? 家族葬にするか、少し盛大にやるか。葬儀の仕方について、遺言を書いておいた方がいいかもしれない。ただ、僕は今のところ、茶寿つまり108歳までは生きるつもりでいる。これからまだ四半世紀、25年もある。まあ、じっくりと考えていこうと思っている。