「認知症」の人たちと過ごした一日

ふと思いついて「介護職員初任者研修」なるものを受けてみた(6月15日付の当ブログ)。「修了証」もなんとか手にした。ついては、その腕前?を実地に試してみようと、ある「グループホーム」に実習に出掛けた。グループホームは「介護保険法」で言うと「認知症対応型共同生活介護」を行う施設で、定員は5〜9人。認知症である利用者が共同で生活し、それを介護職員が支えていくものだ。普通の住まいと同じように、居間や食堂があり、利用者は個室を持っている。

朝9時前、街中の住宅街にあるグループホームに着くと、男性の介護職員がにこやかに迎え入れてくれた。「私はまず何をしたらいいのでしょうか」と尋ねると、「利用者さんの話し相手になって下さい」とのこと。利用者とはここにいる認知症の人たちのことだ。おや、おや、僕にそんなことができるだろうか。認知症の人たちと話が弾むのだろうか。ちょっと不安になったが、利用者たちの共有の場所である居間兼食堂に案内された。

このホームには女性7人、男性2人の利用者がいる。80歳代から90歳代で、それぞれ自分専用の椅子に腰掛けている。黙ってテレビを見ている人、どこかの一点を見詰めている人、じっとうつむいている人、あるいは自分の部屋にいる人。「おはようございます。私は・・・」と、居間兼食堂にいる一人ひとりに挨拶して回った。相手は座っているので、上から目線にならないように、腰をできるだけかがめた。僕なりに思いっきりの笑顔で接すると、笑顔が戻ってくる。

夜勤明けの男性介護職員の音頭でテレビ体操が始まった。利用者のうち立ってやっているのは女性1人だけで、あとは座ったまま手足をゆらゆらさせていたり、何もできなかったり。いまいち冴えないけど、介護職員の元気な声が部屋にこだましていた。

「あんた、どこかで見たことがあるよ」と言う車椅子の女性がいた。介護職員によると、ここで一番の話好きの利用者とか。「あたしはコリちゃんが好きでね。昨日の夜も部屋でこっそりとテレビを見ちゃった」。テニスの錦織圭選手のことだ。彼女は江戸っ子で、プロ野球読売ジャイアンツのファン。「でも、長嶋はあまり好きじゃない。王が好きなの」。認知症の人とは思えなかった。

そのうちに、女性の介護職員の勧めで百人一首坊主めくりをやることになった。メンバーは江戸っ子さんを始め5人の女性と僕。あと2人の女性はじっと座ったままで、ほとんど動かない。男性のほうは、1人は自分の部屋からあまり出てこない。いつも居間兼食堂にいるもう1人の男性は、背筋が伸びていてなかなかにハンサムだが、坊主めくりには興味がないようだ。

やったのは、もともと簡単な坊主めくりのうちでも一番単純なやつだ。絵が描いてある読み札を、絵を隠して積んでおく。それぞれが1枚ずつめくっていき、天皇や公家ら男性が描かれた札だったら、自分の手札になる。坊主だったら、それまでの手札を場に差し出す。女性(姫)だったら、場にある札を全部もらえる。最後に一番多く札を持っていた人が勝ちという、まことにシンプルなゲームだ。

「ハーイ、次はあなたの番よ」「1枚ずつめくるのよ」などと言ってゲームを差配しているのは、少女のようなちょっと甲高い声を出す女性。テーブルの脇にある七夕の笹には「美しい男性に会いたい」との彼女の短冊が掛かっていた。

僕の隣にいるのは、山の手の奥様といった感じの上品な女性だけど、動作が少しのんびりとしている。めくってきた札もまとめて積んだりせずに、絵を上にして1枚1枚、テーブルに並べている。坊主を引き、手札を場に差し出す時には、余分な時間が掛かる。江戸っ子さんから「最初からちゃんと積んどいたほうがいいわよ」と注意が飛んだ。山の手の奥様はショックだったらしく、「あたしって、やっぱり駄目なんですねえ」。いえ、いえ、決してそんなことはありませんよ。

ここで働く介護職員たちは利用者、つまり認知症の人たちの気持ちを傷つけないように気を配っているはずだ。でも、利用者同士の間ではそうもいかない。江戸っ子さんは「あたしは思ったことをつい口に出してしまうので・・・」と話していたが、ハンサムな男性は口げんかのいい相手みたい。

彼が居間兼食堂を離れて廊下を歩き出した時、彼女は「どこに行くの? そっちの戸は閉まってるのよ」と声を掛けた。彼は構わずに廊下の端まで行き、戸をガチャガチャとやっていたが、やがて戻ってきた。そして、彼女に向かって「戸が閉まっているかどうか、確かめてきたんだ。どこが悪いのか」と、少し声を荒げた。介護職員が「まあ、まあ」といった感じで、間に入った。

でも、この男性、実に礼儀正しい。夕方、介護職員と一緒に散歩に出掛けようとしていたので、僕が見送ると、堂々とした敬礼が返ってきた。で、僕は勝手に元自衛官ということにした。夕方6時過ぎ、皆さんに「これで帰ります」と挨拶をして回ると、元自衛官殿は僕に両手を合わせてくれた。目が少し潤んでいるようだった。車椅子の江戸っ子さんは「また、お出でよ」と、明るい声で言ってくれた。
(書き切れなかったので、次回に続きます)