梧州で2015年をスタート

中国の「梧州」というところで今、2LDKのアパートに仮住まいしている。ここは塾のあった南寧や桂林と同じく広西チワン族自治区自治区は省とほとんど同じ)の中だが、東隣は広東省に接し、俗に「両広」と言われる広東と広西の中間に位置する都会である。広東、広西の省都である広州と南寧を結ぶ高速鉄道も昨年終わりに全通し、梧州を通っている。梧州の区部の人口は45万かそこら、紀元前から開けた土地で、大河が町を貫く。今はやや精彩を欠くが、かつでは貿易港として栄えていた。英国の領事館まであった。かの鑑真和上も行き来したことがる。

昨年の終わり、例によって船で上海に着いて1月1日、南寧でわが「東方語言塾」の閉鎖に立ち会ったあと、梧州にやってきた。去年を除き中国で1年の大半を過ごすようになって十数年になるが、住んだ土地としてはハルビン、桂林、南寧に次いで4つ目の都市だ。そして、久し振りの中国滞在にこの地を選んだのは、生徒のひとりが当地の日系企業に勤めていて、何しろ抜群のしっかり者、彼女に一言「よろしく」とだけ頼んでおけば心配はないと思ったからだ。

全くその通りで、会社の同僚から借りてくれたと言うアパートには家財用具、生活用品、食料品の類が見事に揃っている。細かいことで言えば、冷蔵庫にはビール、そしてワイン、白酒(中国の焼酎)、紹興酒、スリッパは部屋用とシャワー用のふたつ、洗剤は台所用、洗濯用、洗顔用、シャンプーから洗濯用の固形石鹸まで、さらには小学館の日中辞典、中日辞典・・・といった具合。アイロンまで運び込んでくれた。買い足すものが何もない。

それでも、彼女は「難点がふたつあります。トイレとシャワーは部屋が狭いうえにトイレが中国式です。それに部屋が6階です。中国式のトイレがお嫌なら、座って用を足す椅子を置きましょうか」と、申し訳なさそうに言う。いや、トイレ、シャワーは大した問題ではない。ただ、こちらのアパート、マンションは普通、8階あたりまではエレベーターがない.。階段であえいでいるご老体をよく見掛ける。それに6階というのは、中国では1階を階数に数えないから、実質7階である。僕はこれまで2階か3階にしか住んだことがない。少しはきつそうだが、脚力の回復にもいくらかは役立つだろう。

梧州を選んだもうひとつの理由は、この街のビル群をじっくりと見てみたかったからだ。数年前、たまたま梧州を訪れた時、バスの窓から見たビル群に興味をそそられた。旧市街にあるそれらのビルは、車道に面した1階部分が幅2メートルほどの歩道になっていて、林立する太い柱が上を支えている。ビルの背丈は2階から4階、5階と、そう高くはない。壁には様々な装飾が施されている。なんとも言えない風情がある。灯ともし頃には幻想的な感じにもなる。

不勉強で知らなかったが、これらは中国の南方に多い「騎楼建築」と呼ばれるものだ。馬にまたがっている感じから、そんな名前がついたのだろう。梧州の場合は19世紀末から20世紀初頭にかけて次々に建てられた。さすがに今ではビルの外観その他に衰えが隠せなくなっているが、中国の旅行案内によると、梧州では現在、22の道路に面して総延長7キロ、560棟の騎楼建築がある。後年、10階建てくらいに建て増されたビルも1階は健気に騎楼形式を守っている。

これらのビルたちのよさは景観だけではない。雨天でも歩道を傘なしで歩けるし、天井が亜熱帯の夏の日差しを遮ってくれる。また、人間を車から完全に守ってくれる。普通の歩道なら、車道から車が飛び込むこともあろうが、こんなに太い柱があっては、車も侵入できない。さらに、歩道の天井には電線が這っている。不恰好な電柱を道路に立てなくても済むというものだ。100年も前の中国人がこんな街を作っていたとは、僕には「サプライズ」だった。

梧州では別のサプライズにも出くわした。僕の仮住まいは新市街にある平凡なアパートだが、近くを散歩していて「60歳以上、カット無料」と書いた理髪店を見つけた。入ってみた。本来なら15元(300円弱)のカット代が、ほんとにそうだった。男の子がけっこう丁寧にやってくれた。もちろん、髪を洗えばカネが要るが、いつから、どうして、こんなことを? 経営者の娘さんがいたので尋ねてみたら「いいことをしたいから、10年ほど前から続けています」と、さりげない。

サプライズがもうひとつ、豆腐が大変においしい。僕は豆腐が好きで、中国でも毎日のように食べてきたが、日本のわが家近くの豆腐屋さんに比べると、味がイマイチである。ところが、梧州の市場で買ってきた豆腐は日本のそれに勝るとも劣らない。南寧からやってきて一緒に食べた生徒たちも「おいしい」と口を揃える。水がいいせいだろうか。しかも、値段は1斤(500グラム)2元(40円弱)と安い。連日のように湯豆腐を楽しんでいる。これさえあれば、食うには困らない。

かくして、2015年は異国の街で機嫌よくスタートすることができた。