わが主治医 Z先生

桂林に来てから、生まれて初めて僕に「主治医」ができた。地元の医科大学付属病院内科の主任医師で、日本で博士号を取った50歳代のZ先生。この大学の看板教授である。1年ほど前、高めの血圧のことで病院に行った折、内科の他の医者から「Z先生なら日本語もできるので・・・」と、受診を薦められたのがきっかけだ。以後、なんとなく親しくなった。

ご本人は僕ごときの主治医などとはつゆ思っていらっしゃらないかも知れない。でも、僕がZ先生の診察を受けたい時には、週2回の彼の診察時間に訪ねたりはしない。患者がごった返す診察時間だと、十分に話もできない。だから、ほかの時間に直接、病院内の彼の部屋に行く。Z先生のスケジュールはだいたい分かっている。例えば「今日はそろそろ学生相手の講義から戻ってこられるころだな」と、彼の部屋の外で待っていると「やあ、やあ」とご帰還になり、「どうしましたか。さあ、どうぞ、どうぞ」ということになる。

受付も何も通さずに診察を受けるのだから、診察代のほうは払いたくても払いようがない。もちろん、薬を処方してもらった時には、病院内の薬局で薬代だけは払うが、診察代はいつもタダである。こんな状況だから、僕から見れば「主治医」としか呼びようがない。

診察以外のことでも大変に親切だ。去年夏、僕は地元の大学の教師を辞めたので、大学内の宿舎を出なければならなくなった。アパートを探していたら「私の家に来なさい。広すぎて困っているんです。もちろん、家賃なんか要りませんから」と、熱心に誘ってくださった。2フロアもあるアパートを大学から提供されているそうなので、広すぎて・・・というのは事実のようだった。

でも、そこまで甘えるのはどうかと思い、丁重にお断りしたが、ご親切にお応えするという意味もあって、息子さんをわが塾に預かり、週4回、日本語を教えている。彼は父親と同じ医科大学の学生で、将来はやはり父親と同じく日本留学を目指している。

ところで、このZ先生の“欠点”は全くアルコール類をたしなまれないことだ。当然のことながら、飲兵衛(のんべえ)に対する理解に乏しい。「あなたは尿酸値が高いですから、ビールはいっさい飲んではいけません」と、やたらに厳しい。朝、起き掛けのビール、夜、白酒(中国の焼酎)を飲む前のビール、その他、とりあえずのビールなどなど・・・それが生きがいのひとつなのに・・・。で、「じゃあ、白酒はどうでしょうか?」と、恐る恐る尋ねると「ウーン。まあ少しだけなら、いいでしょう。1日に100ミリリットルまでです」と、人差し指と親指でコップの中の量までを示しながらおっしゃる。

だけど、そんなことが守れるはずがない。先日、Z先生の息子をはじめ塾の生徒何人かと羊肉専門のレストランでビールと白酒を痛飲した。息子は結構な飲兵衛である。そして、いささか酔っ払った彼が突然、真剣な顔になって僕に言う。「あのう、岩城先生、私がこんなに飲んでいることは、父には絶対に言わないでください」「おう、分かった。僕がこんなに飲んでいることも、お父さんには内緒にしておいてくれよな」「もちろんです」。共通の“敵”に対して、男同士のかたい約束をしたことだった。

そうは言っても、こんな医者が近くにいてくださるのは、まことにありがたい。異郷にいて、しかも、年を取ってくると、なおさらだ。僕は今のところ、高めの血圧でときどきZ先生を訪ねるくらいだが、そのうちに何かと頼りにすることも増えてくるだろう。いっそのこと、ご好意に甘えて、Z先生の家に住まわせてもらえば、さらに安心だ。家賃も「不要」と言われても、ちゃんと払おう。少々多めに払っても、十分におつりが来る。

でも、アルコールに対するZ先生の厳しい顔を思い浮かべると、二の足を踏む。あ、そうだ、飲兵衛の息子がめでたく医者になった折には、主治医を彼に切り替えよう。