「文明乗車」の「文明市民」たち

老人や、赤ん坊を抱いた女性、妊婦などにはバスの中で席を譲る――桂林でも、以前に住んでいたハルビンでも、この点に関しては中国の若者たちは実に感心だ。もちろん、不心得者もいないわけではないが、弱者がバスの中で立ったままという光景には、まずはお目にかからない。

ところで、同じく席を譲るのでも、ハルビンと桂林とでは「譲り方」が違うみたいだ。ハルビンでは一対一と言うか、「私はあなたに席を譲ります。さあ、どうぞ」といった感じだった。が、桂林では、席を譲るべき対象がバスに乗ってきたら、「どうぞ」も何もなく、若者たちはサッと席を立ってどこかへ行ってしまう。バスは前乗り中降りだから当然、前のほうに座っている連中が席を譲ることになるが、譲り方が実にさりげない。そんなのによく出くわす。

譲られたほうは礼を言う間もない。誰が譲ってくれたのかさえ、分からないことがよくあるはずだ。だから、バスに乗ったら「あ、ラッキー、席がひとつ空いていた」といった感じで座れる。席を譲られたという心の負担を感じないですむ。

話は少し変わるけど、中国人は「文明」という言葉が好きで、至る所でこれを見かける。「文明市民」「文明街道」「文明城市」(文明都市)「文明小区」(文明団地)「文明施工」「文明班級」(文明学級)などなど。一種のスローガンでもある。この場合の「文明」は「ギリシャ文明」「中国文明」などというのとは異なり、「丁寧」「まじめ」「きちんと」といった意味らしい。「全国文明線路」と車体に大書したバスも走っている。「全国的にも認められたきちんとした路線です」といった意味か。バスの中には「文明乗車」と書いてある。桂林の人たちの席の譲り方も文明乗車のひとつだろう。

某日、バスに乗った折、運転手に近い前のほうに腰掛けていると、僕の前に座っていた若い男が床にペッとつばを吐いた。なんとも非文明的な男である。心ある中国人はこういうのを見かけると「真不文明」(まったく文明的ではない)と言うそうだが、僕も小さくそうつぶやいて、男をすこし睨みつけておいた。

いくつ目かのバス停で、男はサッと席を立っていった。すぐ老人が乗ってきて、男のいた席に座った。男はたぶんバスを降りたのだろうと、なにげなく後ろのほうを見ると、件の男はつり革につかまって立っている。老人の乗ってくるのが見えたので、さりげなく席を譲ったのだ。なんと文明的な男だろうか。いや、文明と非文明が同居した男、とでも言ったほうが正しいかもしれない。

ところで、車内で席を譲るときの態度と対照的なのは、バスに乗るときだ。並んで順序よく乗車なんて発想がまったくない。バスが止まると、いっせいに入り口に殺到する。バス停では路線ごとに乗り場を分けたりはしていないから、仕方のない面もあるが、見ていて格好のいいものではない。乗車にも時間がかかる。実に非文明的だ。

先日、去年までいた広西師範大学脇のバス停に行くと、檄文らしきものが掲げてある。「礼儀を守ることは中華五千年の民族精神である。この民族精神に則り社会主義精神文明を建設していくことは、時代が我々に与えた任務であり・・・」と、ものものしい。いったい何のことかと目を凝らすと、「並んでバスを待ちましょう」「順番に押さないで乗り降りしましょう」「車内では騒がないようにしましょう」「車内衛生に気をつけましょう」という「文明乗車」の呼びかけだった。「車内衛生」とは、床につばなどを吐くなということだろうか。何やら幼稚園児や小学生にでも言い聞かせるような内容で、おかしくなってしまったが、檄文は「文明乗車でオリンピックを迎えよう」と大まじめだ。某学部の共産党員の学生たちが作ったものらしい。

もっとも、こんな檄文ひとつでいわゆる整列乗車を始めるほど、中国人もやわではないようだ。ここは始発のバス停で、路線もひとつだけ、しかも乗降客には最高学府の学生が多いのだから、整列乗車には最適なはずだ。が、その後いっこうに整列乗車は始まらない。バスが来ると、相変わらず入り口に人が殺到していく。それも学生たちである。

ただ、感心なのは、入り口に殺到はしても「押し合いへし合い」という状況にはならないことだ。時間はかかるが、譲り合うような、譲り合わないような、一種独特な感じで乗車がすんでしまう。「混沌の中の秩序」とでも言うのか、中華民族が「五千年」で身につけたノウハウなのかも知れない。

以下は蛇足だけど、中国人が「文明」という言葉が好きなのに対して、日本人はどうやら「文化」がお好きである。文化住宅、文化鍋、サバの文化干し、会社の名前も文化放送、文化シヤツター・・・。先日、乗っていた車がぬかるみに落ちて口論となり、妻が夫を刺し殺す事件があったが、凶器は文化包丁だった。殺人まで「文化」である。中国人の文明好き、日本人の文化好き、その違いはどこから生まれてきたのだろうか。