「郵便受け」は悲しからずや

昨年夏、広西師範大学の日本語科の教師を辞め、同時に大学内の宿舎も引き払って、近くに小さな一軒家を借りた。その際、借家には郵便受けなんてものは付いていなかったので、知り合いの中国人に頼んでプラスチック製の郵便受けを探してきてもらった。縦50センチ、横幅30センチほどあるでっかい緑色の奴だ。「中国郵政 CHINA POST」と書いてある。これを門の扉にくくりつけた。ちなみに、中国では郵便局の色は赤ではなくて緑である。

わが「東方語言塾」のあるアパートの入り口にも、同じような郵便受けをくくりつけた。アパートの他の住人は郵便をどのようにして受け取るつもりなのか、郵便受けのあるのはわが塾だけである。

さて、これで郵便の受け入れ態勢は整ったが、一抹の不安があった。果たして郵便物がきちんと届くのかどうか。というのは、まだ師範大学にいたころ、桂林近郊の景勝地で旅館を営む日本人の友人から「(僕が彼に頼んでいた)写真を大学あてに送った」というメールがあった。ところが、待てど暮らせど届かない。結局、彼の旅館を訪ねた桂林在住の日本人に写真を託し、わざわざ大学まで届けてもらった。そんなことがあったからだ。

そこで、まずは実験と、桂林市内の郵便ポストにわが家と塾あての手紙を投函してみた。案の定、待てど暮らせどだった。次に、書留にしてみた。これは見事に(?)届いた。サインをして受け取った。

日本に一時帰国した折、切手代90円の普通の航空便で、やはりわが家と塾あてに手紙を送ってみた。これもやっぱり届かない。送料の高いEMS(国際スピード郵便)で本や食料品を送ると、これは5日ほどできちんと届いた。

僕なりに推理してみた。EMSや書留など、送ったという「証拠」の残るものはちゃんと届けるが、証拠の残らないものはどこかで処分してしまうのではないか。中国人の知人にそう言うと「以前、郵便物が途中で捨てられているというテレビの告発番組を見たことがあります。多分、そうかもしれませんね」と同意してくれた。「じゃあ、なぜそれを改めないのですか」と問うと、「そこが中国なんですよ」と、屈託がない。

ところが、この春「異変」が生じた。日本から塾あてに普通の航空便が届いたのだ。しかも、書留でもなんでもないのに、郵便受けには入れず、僕の手に直接渡していった。友人からのもので、受け取りのサインをさせられた。

じゃあ、もう一度、試してみようとこの夏、一時帰国してこちらに戻る直前、桂林のわが家あてに普通の航空便を1通出しておいた。10日ほどして届いた。ところが、届いたのは届いたのだけど、面倒が起きた。郵便局はわが家の郵便受けに放り込んでくれない。代わりに挟んであったのは「身分証明書を持って郵便局まで取りに来い」という通知だ。郵便局まで歩いて20分は掛かる。郵便受けに入れてほしい。で、わが塾の相棒の中国人教師に頼んで郵便局に電話で掛け合ってもらった。以下はその再現だ。

「もしもし、郵便物を取りに来るようにとの通知がありましたが、ちゃんと郵便受けがあります。そこに入れてください」
「駄目です。取りに来なさい」
「配達してください」
「駄目です。取りに来なさい」(ガチャン)
一方的に電話を切られてしまった。

すぐまた電話すると、同じ男が出てきた。
「さっきの件ですが・・・」
「ルールです。取りに来なさい」
「あなたとは話をしたくありません。上の人を出してください」
「・・・」(ガチャン)
また、一方的に電話が切れた。

しばらく時間を置いてまた電話すると、出たのは「責任者」と名乗る男だった。
「郵便受けがあるのに、なぜこんなに面倒なことをするのですか」
「外国からの手紙を受け取るには、サインが必要です。これがルールです。そちらにはすでに3回、配達に行きましたが、留守でした。4回目の配達はしません。身分証を持って取りに来なさい」(ガチャン)
今度は割合静かに電話が切れた。想像するに、北京オリンピックがらみで外国からの郵便物に神経質になっているのだろう。

わが相棒は次には「114番」で郵便局長の席を調べて電話した。
「ルールかどうかは知りませんが、郵便受けがあるし、書留でもないのに、郵便受けに入れないのはおかしくはありませんか。それに、私の問い合わせに対する局員の態度が非常に悪いです」
「そうですか。調べてみます」

1時間ほどして今度は郵便局からわが相棒に電話があり、「今、届けに行っています」とのこと。相棒の頑張りが功を奏したようだ。僕はちょうど家にいた。サインして受け取った。日本で払ったわずか90円の料金で、しかも「自分で自分に出した手紙」で、中国の郵便局を振り回し、まことに申し訳ないことでもあった。でも、もともとの原因はそちらにあるのですよ。

かくして、わが家の郵便受けにも、わが塾の郵便受けにもこの1年間、郵便物が1通も入ったことがない。役目を果たせず、かわいそうなことである。