動物たちとの付き合い方

桂林の自宅近くに「七星公園」という広い公園がある。それほど高くはない7つの山が公園内にあり、それらが北斗七星の形で並んでいるというので、この名が付けられたそうだ。7つの山の1つは頂上まで500段ほどの階段を伝って登れるようになっている。頂上からは桂林市内とそれを取り巻く「山水画」のような山々が一望できる。週に何回かはこの山に登っている。

ある日、山の中ほどまで登ると、階段の先に割合大きなサルが座っている。この公園には何百匹かのサルが放し飼いされているのだ。行く先を邪魔しているサルに、僕は「おい、どけ」と日本語で怒鳴ってみた。すると、サルは素直に応じてくれるどころか、逆に僕の方に向かってきて歯をむき、うなりだした。口をとがらせ、目はまっすぐに僕を見ている。どうやら、サルの機嫌を損ねてしまったらしい。気が付くと、僕の周りにはほかのサルも何匹か寄ってきたようだ。援軍だろうか。

さあ、どうしようか。頂上に行くのを諦めて退散しようか。いや、サルごときにお尻を見せたとあっては、子々孫々までの恥ではないか。では、闘うか。先ほどまで雨が降っていたので、手には折りたたみ式の傘がある。武器になる。でも、何匹ものサルにいっせいに襲いかかられたら、果たして勝てるだろうか。殺されることはないだろうが、例えば、日本の新聞に「邦人 中国・桂林でサルと喧嘩して大怪我」なんて記事が載るかもしれない。お笑い草である。これも子々孫々までの恥ではないか。サルは依然、僕の目を見ながらうなっている。しつこい奴だ。

いささか進退窮まっていると、階段のずっと上のほうから男の声が聞こえてきた。僕の窮状が目に入ったのだろう。何を言っているのか、ほとんど分からないが、どうやら「石」をなんとか、かんとかと言っているようだ。そうだ、石ころをサルに向かって投げてみたら、どうなるだろうか。で、その場でしゃがんで石ころを拾おうとした瞬間、それこそ「クモの子を散らすよう」という表現そのままに、サルたちはいっせいに逃げて行った。

しばらくして階段の途中で出会ったおじさんには丁重に礼を言ったことだったが、以前にもこの階段でおばさんに助けられたことがあった。ポケットから飴を出して口に放り込もうとした時だった。5匹ほどのサルが僕を取り囲んだ。飴を欲しがっているようだが、さて、どうしたものか。逡巡していると、やはり階段の先のほうからおばさんの声が聞こえてきた。身振り手振りで、持っている食べ物を全部捨てろと教えてくれた。で、ポケットの中に残っていた5個ほどの飴を草むらに投げると、サルたちはいっせいに飛び付き、そしていなくなった。

僕も長年生きてきて、それなりに生きるための知恵も積んできたつもりだ。だけど、その知恵はサル1匹にも対応できない。この地のおじさん、おばさんに助けてもらわないと、大惨事にも至りかねないところだった。いやはや・・・。その点、この地の人たちは身近な動物たちとちゃんと付き合っているみたいだ。そう言えば、生きたニワトリの脚を縛って逆さ吊りにし、片手で下げて歩いているおじさんやおばさんをちょくちょく見かける。家で自分でさばいて、とり鍋か何かにするのだろう。ニワトリをさばくなんて、僕にはとてもできない。

まだ当地の師範大学にいたころ、日本語科の女子学生10人ほどと郊外に出掛けた。そして、とり鍋を作ることになると、2人の学生がニワトリ2羽の首をひねって殺し、羽をむしり、皮を剥ぎ・・・僕は正視できなかったが、彼女たちはこともなげだった。

以前、わが塾にいた銀行員の青年は、桂林から2時間ほどの実家に帰るたびに、生きたニワトリを何羽か、連れ返っている。そして、アパートのベランダに飼っておき、順番にばらしては食べている。もちろん、スーパーにはパック入りの鶏肉も売っているが、自分でニワトリをさばいたほうがずっと新鮮な肉を食べられます、と彼は言う。確かにそれはそうだろう。

わが家近くの市場には、生きたニワトリやアヒルが何百羽も置いてある。値段は重さで決まる。ニワトリは1羽30元(1元≒15円)ほど、アヒルは1羽20〜30元、鳩も真っ白いのがたくさんいる。白い鳩は平和の象徴のはずだが、これも食用だ。ニワトリなどを自分でさばくのが嫌だったら、店のおじさん、おばさんがやってくれる。

ニワトリたちの近くに、やはり檻に入れられた犬が10匹ほどいる。親犬とその子犬らしいのもいる。うかつなことに僕は、これらはペットとして売っているのだと思っていた。ところが、あにはからんや、犬たちも食用だった。親犬は1匹100元以上。子犬はしばらく飼って大きくしてから食べるらしい。酒を飲ませて酔っ払わせれば、料理は簡単とのことだ。

慣れない僕らから見れば、いささか残酷にも感じられるが、スーパーやデパ地下で買ってきた鶏肉を食べようと、自分でニワトリを殺して食べようと、やっていることは要は同じである。犬を食べるかどうかは文化の問題だ。言えることは、対サルにしろ、対ニワトリにしろ、こちらの人たちの方が僕なんかよりはずっと知恵があって、お付き合いにも慣れているということだろう。