長距離バスで「小豚」を売らないで!!

この地に「子豚を売る」という話がある――ある所で「○○行き」のAバスに乗る。ところが、このバスは○○までは行かない。途中でBバスに乗り換えなければならない。AバスとBバスのオーナーは「ぐる」で、示し合わせてこんな路線を走らせている。「運がいい」時には、Bバスに乗り換えるだけで○○に着くが、「運が悪い」時には、さらにCバス、Dバスなどに乗り換えないと○○に着かない。Cバスなどのオーナーも「ぐる」である。「運がもっと悪い」時には、何度乗り換えても○○に着かない。もちろん、すべてのバスのオーナーが「ぐる」である。ちょうど子豚を次から次に転売して儲けていくのと似ていることから、こういう行為を「子豚を売る」と呼んできたらしい。

実際にこんなことがあるのかどうか、よくは分からない。あったとしても、昔の話だろう。でも、今でも似たことに出くわすと言う。

僕が広西師範大学にいた時に教えた女性が、広東省の東莞市で働いている。この春節旧正月)を、わが桂林市も属する広西チワン族自治区の南寧市に近い郷里で過ごした後、東莞市のバスターミナル行きの長距離バスに乗った。「広東」と「広西」は名前からも分かるようにお隣同士である。東莞市は深圳市に接する大都会で、近年、急速に発展してきた。南寧―東莞のバス料金は400元(1元≒14円)、春節というので普段の3倍以上に値上がりしている。腹が立つが、仕方がない。夕方、彼女はバスの座席に身を沈めた。

「東莞市に着いた。さっさと降りろ」と言う運転手の大声で目が覚めた。時計を見ると午前6時、あたりはまだ真っ暗だ。終着駅のバスターミナルではない。
運転手に尋ねた。「ここはどこですか」「東莞だよ」「違うでしょ、バスターミナルではないわ。ターミナルに行かないのなら、こんなバスに乗らなかったわ」「バスターミナルは近くだ。すぐ見つかる」。でたらめだ。彼女も東莞市で働いてほぼ1年、地理は多少分かる。東莞市は南北50キロ、東西70キロもある。どうやらここは東莞市のはずれのようだ。こんな所で降りたら、バスターミナルまで20キロ、30キロあるかもしれない。強盗に襲われたらどうしよう。でも、ほかの乗客たちはぶつぶつ文句を言いながらも降りていく。「権利」といった意識があまりないみたいだ。彼女は絶望感に襲われた。

運転手は言った。「俺たちはこれから深圳へ行って、また東莞に戻ってくる。いま降りないなら、その時に降りろ」「その時はどこに着くの?」「同じ所だ」。彼女は考えた。同じ所で降ろされるにしろ、その時は空が明るくなっているだろう。今よりは安全だ。もう少しバスに乗っていよう。

深圳でも市の入り口で乗客を無理やり降ろし、バスは東莞市に戻ってきた。もの思いにふけっている彼女を運転手が冷やかした。「どうしてそんなに怖がるんだ?」「もし、あなたの娘が『子豚を売る』みたいな目に遭ったら、彼女は怖がらないの?」。この言葉はあこぎな運転手を少しは動かしたようだった。

「実は俺たちのバスはターミナルに着ける許可をもらっていないんだ。バスターミナルがどこにあるのかさえ、俺は知らない」。運転手はそう言いながら、もう少し街中に近いところまでバスを動かして、彼女を降ろした。だが、当初の約束の「ターミナル」までは頑として行こうとはしなかった。降ろされた所から勤め先までタクシーで50元。日本円で700円ほど、初乗り料金に過ぎないが、こちらでは4000〜5000円くらい払った感じだろうか。

河南省の大都市鄭州市で働く知人の息子が、バスで2時間ほどの町に出張した。バス代は20元。ところが、バスが町外れに着くと、運転手が「町の中心部まで行く客はあと3元払え」と言う。べらぼうな話だ。多分、運転手の小遣い稼ぎなのだろう。即座に断ると「じゃあ、1元払え」と、折れてきた。それも拒否すると、今度は運転手二人が力ずくで彼をバスから降ろそうとする。「降ろせるものなら、降ろしてみろ」。彼は必死に座席にへばりついて頑張った。

運転手に抵抗しているうちに、だんだん分かってきた。ほかの乗客たちはすでに運転手に「3元」を支払い済みのようなのだ。だから、彼の抵抗には冷ややかだ。彼のせいでバスの出発も遅れる。「さっさと払えばいいのに、困った奴だ」といった声が聞こえてくる。

結局、彼からカネを取るのをあきらめてバスは出発した。だが、運転手は「恥ずかしくないのか、恥を知れ」と、彼をののしり続けた。不安になった彼は、行く先の町で働く同僚に電話して、バス停まで車で迎えに来てもらった。その車を見て、運転手はまた言った。「車まで持っている連中が、たった3元を払わないなんて・・・どけち野郎だ」。理不尽な行為に抵抗したばかりに、運転手や乗客から嘲笑された。若い彼は悔しくてたまらなかった。

この若者二人の場合、周りはだれもがその「戦い」に味方してくれなかった。無視するか、嘲笑するか。やがて若者たちも疲れて「戦い」をあきらめ、最後には自らが「不正」を働く側に入っていくことだって、ありえないわけではない。そう考えると、ちょっと暗い気持ちにもなってくる。