桂林人の美的感覚

3年前の夏、僕は北のハルビンから南の桂林に移ってきた。平凡な表現だけど、桂林の街中は「緑のトンネル」といった感じの道路が、まさに綾なしている。ハルビンでも、日本でも、こんな道路はざらにはない。と言うより、まず見かけない。桂林の人たちの美的感覚に、僕は感動した。と同時に、その道路脇にあるバス停留所の「広告」の美的感覚には違和感を覚えた。

いつも利用するバス停には、にっこりと微笑む若い女性の大きな写真があった。婦人科の病院の広告だ。そのコピーには、まず「思いがけない喜びにあったら」というのがあり、脇に「眠っている間に簡単に捨てられます」という文句が並べてあった。失敗してデキちゃったら、気軽におろしましょう。この種のことには疎い僕にも意味はすぐ分かる。「婦人科」と言っても「産科」を兼ねているのだろう。まあ、その種の需要はあるはずだし、それで助かるお方もいらっしゃるだろう。でも、バス停でこの美女にお目にかかるたびに、なぜかいたたまれない気持ちになった。

どのバス停でもそうだというわけではない。屋根つきの比較的大きなバス停にそれはあり、特に都心部で目立った。さすがに、こんな広告は少しやりすぎじゃないの?といった声もあったように聞いている。いつのまにか、この広告はいっせいに姿を消した。代わりに同じ病院の広告が別のコピーで登場した。若い女性がにっこりと微笑んでいるのはこれまでと同じだが、女性は看護婦姿に変わった。

で、暇に任せてそれを眺めていると、図柄はほぼ同じだが、コピーは3種類もある。一つは「出産を助けて、ご両親の夢を実現します」という、以前のとは180度違ったコピー、もう一つは「なんとか技術でなんとか病を全面解決します」と、これもまあ、まっとうなコピーだ。問題は三つ目のコピーで「思いがけない悩みを一気に解決します」とある。「思いがけない悩み」って、なに? 「一気に」って、どういうこと? どうやら、以前の「眠っている間に・・・」と同工異曲のコピーであるようだ。

街中のバス停や街路灯などの広告でダントツに多い病院は、いま槍玉に挙げた「婦人科病院」だが、あとふたつ、別の「婦人科病院」と「婦人科&泌尿科病院」が続いている。どれにも若い女性の大きな写真が付いている。その種の悩みを抱えた方には同情するし、一日も早い全治をお祈りする。でも、こんなにあちこちで婦人科、婦人科、あるいは泌尿科・・・を目にしては、いささかうんざりするというものだ。もう少し控えめにやっていただけないものだろうか。

そう思いながら、たまたま大正時代の朝日新聞を繰っていたら、「梅毒・淋病」「淋病・梅毒」「花柳病」の治療を前面に掲げた病院・医院の広告がやたらと目に付いた。薬も「淋病新薬ナントカ」「梅毒にナントカ注射」、さらには「淋病は薬では治りにくい ナントカ根治器を」なぞと、まあ、にぎやかなことだ。「必ず全治させます」といったコピーがついていたりする。日によっては、広告欄の三分の一やそこらがこの種の広告で埋まっている。

その同じ新聞に英文学者の厨川白村(くりやがわ・はくそん 1880〜1923)が『北米印象記』を連載している。その中で彼は米国人について、男は普段、女と金のことしか考えていない、と酷評しながら、「あれだけ広告の流行る国で、花柳病の広告は電柱は勿論のこと、新聞にも全く掲げられない」と感心している。おそらく、当時の日本では電柱にも梅毒・淋病・花柳病の広告が溢れていたのだろう。もう少し控えめにしてくれないか・・・厨川氏も常々思っていたに違いない。

桂林のバス停の広告に最近、人目を引くニューフェースが登場した。やはり若い女性の大きな写真がついているが、今度はセミヌードで、おへそ丸出しの大きなおなかが写っている。妊娠中のおなかを記念に撮っておきましょう、その際には当方へどうぞ、というナントカ写真館の広告だ。

確かに、妊娠中のおなかを記念撮影しておくのは、悪いことではないだろう。何年後、あるいは何十年後に、写真を眺めながら、家族のほほえましい話題になるかも知れない。

でもねえ、これももう少し控えめにやっていただけないものだろうか。毎日毎日、バス停で、妊婦の裸のおなかを見せつけられては・・・。婦人科、泌尿科の広告といい、これといい、バス停で僕は目のやり場に困っている。こういう広告のないバス停に立った時にはほっとする。いったい桂林の人たちの美的感覚はどうなっているのだろう? わが塾に来てくれている若い女性たちはどう感じているのか、尋ねてみたい。でも、そんなことを話題にしたら、「エロじじい」と嫌われるのが「落ち」かも知れない。そう思って、それは控えている。