日本語の上達を阻むもの

以下はわが塾での教師と生徒の初対面のやりとりである。この生徒はすでに日本語には自信満々なので、最初から日本語で会話している。

A:あなたは学生ですか。それとも、何か仕事をしていますか。
B:おれ、今、学校なんだ。
A:学校で何を勉強していますか。
B:理工学。
A:ご両親はどちらにいらっしゃいますか。
B:桂林だ。

Aが教師、Bが生徒である。生徒は大学3年生の男の子。日本のアニメが大好きで、もっぱらアニメで日本語を独習してきた。従って、聞き取りの能力はかなりのものである。こちらの質問に対して聞き返したりはしない。わが塾に来たのは会話の能力を磨きたかったからだ。だが、困ったことに「です、ます」を使わせるとうまく話せない。彼の「先生」であるアニメにはそんな場面があまりないからだろう。

塾に来てすでに2か月ほどが過ぎ、少しはよくなってきた。が、授業が終わって「さあ帰ろう」とつぶやく彼を送り出しながら「お疲れ様。また、明後日来てください」と声を掛けると「わかった。じゃあねぇ〜」。教師も生徒もあったものではない。「失礼いたします」「ありがとうございました」と言うべきところが、友達同士のような会話、いわゆる「タメ口」「タメ語」になってしまう。

会話の途中に「あのう、なんか、まぁ」とか「なんと言うか、まぁ」とかを挟むのが口癖になっている生徒もいる。アニメで見聞きして、それがかっこいい流暢な日本語だと思い込んでいる節がある。もちろん僕だってそういう言葉を使うことはあるが、しょっちゅうこれを聞かされると耳障りである。

この国に限らず、世界には日本アニメのファンが多いそうだ。それはそれで結構なことである。わが塾でもア二メがきっかけで日本語を習うようになった若者が少なくない。アニメのおかげで生徒が来てくれるというものだ。でも、何ごとにも功と罪。もっぱらアニメそしてテレビドラマで日本語を勉強していると、弊害も出てくる。敬語などは無縁のものになってしまう。もちろん、友達同士のくだけた会話も必要である。いつも「です、ます」では友達もできないだろう。だけど、わが塾ではまず「きちんとした日本語」から教えたい。

ところが、困ることがアニメ以外にもある。日本語を勉強している中国人の若者からタメ口で話し掛けられたとする。そんな時、年配の日本人でさえ「私に対してそういう口の利き方をするのはよくないぞ」と注意してくれない。それどころか、逆に友達同士のような会話を楽しんでいたりする。何度かそういう場面を見たことがある。おじいさんがとりわけ若い女性のタメ口と付き合うのは、きっと楽しいことだろう。お気持ちは分からなくもないが、日本語を教えている身としては苦々しくもある。

日本人の振る舞いで困ることがまだある。中国人から「日本語は助詞が難しくて・・・」とぼやかれることが多い。確かにそうなのだが、そんな時に「助詞なんてどうでもいい。助詞抜きでも会話は十分にできるよ」と応じる日本人がいることだ。もちろん、助詞抜きでも会話はかなり成り立つし、実際にも助詞抜きで話すことがよくある。でも、それも「きちんとした日本語」が話せるようになってからの話である。なかには「おれたち、助詞なんて習ったことないよ」と、助詞そのものを否定する感じの日本人もいる。自分が日本語のネイティブであり、相手が外国人であることを無視している。本当に頭に来てしまう。

そんなこともあって、わが塾ではしばらくの間、助詞の授業を重点的にやることにした。具体的には、僕が過去に書いた『なんのこっちゃ』の文章中の助詞を100か所、修正液で消してしまい、それを埋めさせるというやり方だ。上級クラスの女性ばかり15人ほどを対象にやっているが、正答率60パーセント台から70パーセント台前半の者がほとんどだ。とても満足できる数字ではない。せめて90パーセントは超えてほしい。

しかも、生徒の反応を見ていると、三分の二の生徒はまじめに聞いているようだが、三分の一の連中からは「今さら助詞でうるさく言われるなんて、おもしろくないなぁ」といった感じが漂ってくる。日本人と直接あるいはインターネットで付き合っている生徒にそんなのが多い。彼女たちは上級クラスでもよくできる連中で、たぶん助詞抜きの友達言葉で日本人とやりとりしているのだろう。そんな連中に対しては「将来、日本の風俗あたりで働きたければ、それでもいいだろう、ご自由に」と、セクハラ気味の一撃を加えることにしている。