巣立ち

南寧での僕の住まいは割合に広いので、わが塾の「寮」と称している。そして、遠くから来ている生徒を何人か住まわせてきた。下の写真は以前にもご披露したことがあるが、今年初めごろの塾での朝食風景である。結構にぎやかで華やかだった。ただし、一緒に住まわせると言っても、生徒なら誰でもいいというわけではない。初級程度の生徒相手なら教師の代役が務まることを条件にし、僕はひそかに「師範代」と呼んでいた。そして、塾の生徒は女性が圧倒的に多いので、同居の師範代たちも必然的に女性ばかりになった。

ところが、この6月あたりから同居人が1人減り、2人減り、今月初めにはついに誰もいなくなってしまった。で、次の写真が近頃の朝食風景である。「監視の目」がなくなったので、朝っぱらからビールの大瓶が立っているが、以前を思うと、わびしげである。子供たち、孫たちに去られた独居老人といった風情でもある。

ただ、僕が嫌われて独りぼっちというわけでもない。最初の写真の4人のうち1人は事情があって郷里に戻ったが、1人はシチズン系列の会社に通訳として就職し、あと2人は今月初め、日本へ留学に旅立っていった。それぞれにちゃんとした理由がある。

僕はこれまで中国の大学でボランティアで教えたり、自分で塾を作ったりしてきたが、前者と後者では学生・生徒に対する「責任」といった点でちょっとした差がある。つまり、大学ではボランティアの教師が就職や留学の面倒をみる必要はない。相談を受けることはあっても、自分の意見、考え方を伝えれば済んでしまう。

ところが、塾だとそうはいかない。それも中卒、高卒で「あいうえお」から日本語の勉強を始め、1級の試験にもまあまあの成績で合格した生徒の場合が難題である。「先生に言われたとおり、一生懸命勉強してきました、さあ、これからどんないいことがあるんですか?」。 そう言われても、本当のところは困ってしまう。でも、放っておくわけにはいかない。就職先や留学先を探さなければならない。

実はシチズン系に就職した20歳代半ばの女性も高卒である。高校とは言っても2年制の職業学校で、高校の中では格付けが一番低い。卒業後はスーパーのレジに立っていた。わが塾に来て始めた日本語はかなりのものになったが、シチズンに通訳として応募しても学歴の面で門前払いを食らいそうだ。シチズンが募集しているのは、基本的には大学の日本語科卒だろう。そこで、日本人の社長のところまで僕がのこのこと出向き、「受験のチャンスだけは与えてやって下さい」とお願いした。結果は並みいる日本語科卒がかなり落ちた中で彼女は採用された。

日本に留学した2人もやはり20歳代半ばで、うち1人は高卒。卒業証明書を取りに母校に戻ったら、18年間も同校にいた恩師が「わが校から『留洋』が出るのは初めてです」と喜んでくれたそうだ。「留洋」とは今では使わなくなった古い言葉で、外国に留学することだ。昔の日本語に訳せば「洋行」とでもなろうか。もう1人は大卒だが、大学では日本語とは何の関係もなかった。卒業前にわが塾にやって来て3年余り、それこそ居ついていた。人柄は飛び抜けていいが、「売り物」がまだない。両親は農民である。

彼女たちがもしわが塾に来なかったら、今どんな人生を歩んでいただろうか。さっきの「留洋」の生徒は「叔母が市場で麺類を作りながら売っているので、私もそれを手伝うようになったと思います。留学なんて、夢でさえなかったでしょう」と言う。麺類の製造販売も立派な職業ではあるけれど、そんなことを想像していると、わが塾も彼女たちの人生にいささかの貢献をしたのではないか、と自負もしたくなってくる。

それはそれでいいのだけれど、塾の現実の問題としては、師範代が一挙にいなくなってしまった。反対にどうしたことか、生徒は増えてきた。口コミによるみたいで、ありがたいことではある。でも、相棒の中国人の先生と僕の2人ではとてもさばき切れない。相棒は朝、昼、晩、たっぷり2時間ずつ授業し「死にそうです」と言っている。

師範代たちのおかげで随分と楽をさせてもらってきたのだなあ。あらためて感謝しているが、さて、これからどうしたものか。案じていると、家貧しくして・・・ではないが、師範代志望者が次々と出てきた。巣立っていった連中に比べるとまだまだ危なっかしいのだが、勝手に教壇に立っている。教えるのって楽しいみたいだ。大学日本語科の3年生が別の日本語科の4年生を教えたりしている。教えられるほうもけっこう神妙に聞いている。この調子でいけばもう少しで、またラクチンな毎日に戻れそうである。