博士でなければお呼びでない

ある大学の日本語科で教員の採用試験があった。数人が応募し、それぞれが模擬授業をした。圧倒的にうまかったのは大学の学部日本語科を出て会社勤めをしていた女性だった。大学院には行っていない。その女性のほかは大学院の修士課程にいる男女で、学歴だけは高いが、授業振りはさっきの女性に比べ格段に落ちた。しどろもどろと言ってもいい。でも、採用されたのは修士課程の連中だった。以上は模擬授業を傍聴した関係者から聞いた話だ。ナンバーワンの不採用には何か特別の理由があるのかも知れない。だが、修士という肩書の有無が採用に大きく影響したことは間違いない。そう、さっきの人は言う。

僕が10年ほど前にハルビンの大学の日本語科で教え始めた頃は、教員は大学の学部日本語科を出た学士たちだった。修士や博士もいたのかも知れないが、話題にはならなかった。ところが、そのうちに、大学の日本語科の教員になるには修士号が必要ということになってきた。この大学にも日本語科の大学院ができ、僕もそこで教えるようになった。そして、大学教員を目指す学生はここの修士課程に進んだ。すでによその大学の日本語科で教えていた教員たちも大学院に入り直してきた。

僕はハルビンで5年ほど教えた後、桂林の大学に変わった。ここは日本語科の大学院がなかったため、大学教員を目指す卒業生は大学院のある他の大学に移って行った。そんな一人から修士課程卒業を控えて「博士号も取りたいんですが・・・」と相談を受けたことがある。「へぇ、すごいね。でも、どうして博士号まで?」と聞くと、「最近は有名な大学に応募しようとすると、博士号が要求されるんです」とのこと。彼女は結局は博士号をあきらめ、今は郷里に近いあまり有名ではない大学で教えている。冒頭に書いた大学もあまり有名ではないせいか、博士号までは求めなかったようだ。

わずかこの10年ほどで中国の大学の日本語科教員の採用条件が学士→修士→博士と急に高学歴化してきた。一つには中国の大学卒業生がこの間に6倍、7倍と増え、今では年に700万人やそこらがひしめいている、という事情がある。大学教員の採用に限らず、差別化を図るために採用する方も採用される方も1ランク上、2ランク上の学歴を求めることになる。

もちろん、中国の大学で日本語科教員の学歴が高まること自体はご同慶の至りである。でも、教員になって実際に学生に教えるのは「あいうえお」からである。例えば『源氏物語』を読みこなせる人たちももちろん必要だが、五十音を教える際に猫も杓子も博士号が要るのだろうか。現に僕の塾では高校卒で五十音から習い始めた女性が、今では大学生相手に初級、中級の日本語を教え、結構慕われている。教える能力と学歴とはまたちょっと違うものだと思う。

そして、学歴がますます重要視されてくるのに伴い、学生たちの考え方が何かいびつになってきたようにも感じる。学歴さえあればいい、実力は二の次だという風潮が、蔓延してきているように思えるのだ。これを日本語の場合で言うと、日本語能力試験国際交流基金などが実施)のN1級に合格しさえすれば一丁上がり、日本語の勉強は打ち止め、といった感じの学生が目立つのである。ちなみにN1級の「N」は少し前、試験の内容が変わってから付いたもので、多分「NEW」の意味だろう。N1の下にN2からN5までがある。N1級の場合、試験問題は言語知識、読解、聴解の三つからなり、それぞれが60点の180点満点。得点が100点を上回れば合格である。

ところで、これを100点満点に換算すればわずか55点ほどで合格であり、「N1 日本語能力認定書」が送られてくる。認定書に点数は書いていない。言い換えると、「N1級合格」とだけ聞くと、日本語に「免許皆伝」のようにも感じるが、決してそうではない。しかも、試験問題は4つの選択肢から1つを選ぶ。いい加減に答えても4分の1の確率で正解にぶち当たる。つまり、試験問題の半分あるいは半分以上が分からない免許皆伝がごろごろいることになる。

そんなことからわが塾では「N1級にやっと合格したぐらいでは使い物にならない。日本語の勉強はその後が大切だ」と言うのだけど、大学生たちの関心はあまり呼ばないみたい。「就職にはN1級の認定書があれば十分。なんで、それ以上努力するの?」といった感じの冷ややかな目線が戻ってくる。ひたすら学歴だけを追い求めていると、こんなところにも影響してくるみたいだ。

反対に中学卒、高校卒の連中の方が能力試験で高い得点を取ろうと努力する。「日本語で食べていこう」と思い定めるからだろう。ところが、日系企業の求人を見ていると「大学卒、N1級」と書いてある。仕方がないから一介の素浪人の僕が当の会社にのこのこ出掛けて行き、「学歴はないが、試験だけは受けさせてほしい」と頭を下げたりしている。そんな一人が最近、日系企業から通訳として内定をもらった。僕までが嬉しくて仕方がない。学歴なんかには何の関係もない年齢になってから「学歴社会打破」に情熱を燃やすようになった。