中国で初めて入院してしまった

某日、朝早くから下腹部が痛い。前夜、すこし寒かった。久しぶりに飲み過ぎたせいもあろうが、多分、寝冷えだろう。すぐ治る。熱い湯を飲んだり、下腹部に電気こたつを当ててみたりした。が、つらくなるばかりだ。

とうとう昼過ぎ、病院に行ってみることにした。塾の仲間2人に付き添いを頼んだ。行き先は車で10分ほどの「武警病院」。武警とは武装警察のこと、まあ軍隊の病院のようなもので、中越戦争(1979年2月)の折、ここは野戦病院だったそうだ。従って、医者もみんな軍医だと聞いている。街外れにある病院だから、多分すいているだろう。以前にも塾の仲間の付き添いで何回か行ったことがある。感じは悪くなかった。

やはり、すいていた。主任医師と称する年配の女性がすぐ相手をしてくれた。で、ちょっとおなかを触ったと思うと、いきなり「入院しなさい」だった。エッ、これしきのことで入院なんてしたくない。腹痛が治まったらすぐ帰りたい。でも、付き添いの2人が申し訳なさそうに言う。「ここは中国ですから、仕方ないですよ」。中国の病院はとかく入院させたがる、といった話は前々から聞いていた。まあ、いい体験だと思うことにしよう。着替えも何も持って来ていないが、幸い今日は涼しい。着の身、着のままでも1晩くらいは大丈夫だろう。

様々な検査が始まった。血圧測定から血液検査、検尿、心電図、下腹部のレントゲン撮影、超音波ナントカ・・・どうやら腹部の「流通」が滞っていたらしい。でも、痛みのほうは注射のおかげで治まったし、子どもの時以来、半世紀ぶりに浣腸もやらされ、おなかはすっかり落ち着いた。医者には言わなかったが、自分なりに原因も分かってきた。実はこのところ酒のつまみにエンドウ豆を乾燥して炒った奴をよく食べていた。醤油を少し掛けるとおいしい。多分、腹の中で膨れるだろうとは思いながら、多い時には茶碗1杯分もつまんでいた。こいつが腹部の流通を阻害したようだ。

病室で午後3時ごろから点滴が始まった。中国の病院はどうしてか、点滴が大好き?で、ちょっとした風邪でも点滴が延々と続く。今日、僕の場合はどうなのだろう。聞いてみると、ブドウ糖、カルシウム、ナントカ、カントカ・・・大は500mlから小は100mlまで瓶が7つあると言う。いったい何時間掛かるのだろうか。結論から言うと、全部が終わったのは翌日の午前3時だった。ほぼ12時間。体が点滴の容器につながれているから、寝返りも打てない。つまり、安心して眠れない。

点滴攻勢もさることながら、中国で入院した時に一番困るのは、四六時中、ずっと傍らにいてくれる「付添人」を確保することだそうだ。こちらでは、付添人不要の「完全看護」というものがないらしい。患者の食事ひとつにしろ、病院側が運んでくれるわけではない。すべて付添人がやらなければならない。

幸い僕の場合、塾から次々に女性の生徒が駆け付けてくれたし、この病院の検査員をしている女性がたまたま塾の生徒で、勤務時間の後も付き添ってくれた。元塾生の女性も2人、明け方にやってきた。それぞれ汽車で6〜7時間も掛かる遠方で働いているのだが、僕の入院を聞いたので、すぐ有給休暇を取って夜行バスに飛び乗った。多分、付添人がいなければ大変だと思ったからだろう。おかげで、退院まで付添人だらけのわが病室だった。

ところで、その「退院」だけど、これがまた厄介だった。入院2日目、昼ごろには退院したいなあと思っていたら、あに図らんや、午前10時にまた点滴が始まり、分量は前回と同じだと言う。すると、終わるのは午後10時ごろになる。ああ、やだ、やだ。とにかく点滴が終わったら退院したいと申し出ると、僕の担当になっていた女性医師がやってきた。40歳くらい。小柄だが、軍医だけあって歩き方からして元気いっぱいだ。そして、僕をにらみつける。「あなたは明日、症状がまた悪くなるかも知れません。それなのに、なぜ退院するのですか」。「ウェイシェンマ?」(なぜですか?)と言う声がひときわ高い。でも、写真(撮影:黄小玲)のような状況はもう願い下げにしてほしい。

結局、「後日、何かあったらすぐ連絡します」といった「退院願い」を出して、退院が許されたのだが、瓶7本中6本目の点滴をやっていて、どうにも我慢がならなくなってきた。で、「点滴の残ってる奴、飲んでしまえないか、聞いて来てくれ」と付添人に怒鳴ると、朗報が戻って来た。最後の1本はやらなくてもいいとのこと。かくして午後9時ごろ、予定より1時間ほど早い解放となった。

1泊2日の入院費用は占めて1637元也。1元≒16元の今だと26000円ほどになる。高いのは医療保険がないせいもあるが、中国人の場合だって役人とかでない限り普通の人たちには保険はないも同然である。武警病院の病室がすいていたのも、むべなるかな、いい体験をした僕にとってもちょっと痛い出費ではあった。でも、もう1泊していたら、また検査、検査、点滴、点滴で1000元やそこらは飛んでいただろう。なんとか逃げ出せて幸いでもあった。