「特定秘密保護法」で思い出したこと

特定秘密保護法」が成立し公布された。国民の知る権利や言論の自由が侵されないか。また、処罰を怖れて、報道機関の取材が萎縮するのではないか。いろいろと危惧されている。昔、新聞記者だった僕としては、こんな法律を怖れないジャーナリストたちの勇気に期待したいところだが、心配なことも多い。日本のジャーナリストたちに果たしてそれだけの気骨があるのかどうか。40年ほども前のことをふと思い出したからだ。以下、いつもの『なんのこっちゃ』とはちょっと趣が違うけど・・・。

1972年に日本と「中華人民共和国」(中国)の国交が正常化した。そのしばらく後のことだ。当時、僕のいた新聞社では「台湾」に取材にいくことはご法度だった。他の新聞社も同じだった。それは日中国交正常化に当たって日本政府も受け入れた「一つの中国」政策に反するとの理由からである。「一つの中国」とは「台湾は中国の一部分で、中華人民共和国が全中国を代表する唯一の合法的政府である」というものだ。新聞社も記者を北京に常駐させるに当たってそれを受け入れていた。

で、もし新聞社が台湾に記者を派遣したらどうなるのか。多分、「一つの中国」政策に違反し「二つの中国」を画策したからと、北京駐在のその社の記者が追放される。それ以降、その新聞社は北京に記者を置けなくなる。新聞社としては、中国大陸を支配する中華人民共和国の首都にはなんとしても記者を常駐させておきたい。だから、台湾に記者を派遣するような危険は冒したくなかった。特定秘密保護法ならぬ「一つの中国」政策の前に台湾取材は萎縮し切っていた。

でも、こんなのって、おかしい。報道の自由はどうなっているの? 仮に「一つの中国」を受け入れても、その一部分の台湾に取材に行ってどうしていけないの? 当時、30歳代の前半で経済部の記者だった僕は「台湾の経済は随分と発展しているみたいだ。ぜひ取材に行きたい」と、社内でぶっていた。少しは反骨精神もあった。でも、部長やデスクは全く相手にしてくれなかった。

そのうちに、社内の調査研究室という部門から「台湾の経済について社内用のレポートを書け」との注文があった。あまりにも台湾の状況を知らないのは新聞社としてもまずい、との反省があったのだろう。台湾の政治については政治部の記者が書くことになった。やっと台湾に行けるぞと小躍りしたが、条件が付いていた。「台湾には絶対に行ってはならない。日本国内で取材しろ」。

がっかりした。取材に取り掛かったけど、取材先は限られている。まずは亜東関係協会日中国交正常化に伴ってそれまでの日台の国交は断絶した。その代わりに設けられた台湾の対日窓口機関が亜東関係協会で、経済面、文化面などでの交流を担っていた。あと、当時日本の銀行で台湾に支店を持っていたのは第一勧業銀行(現在のみずほ銀行)だけだったので、ここの元駐在員の話を聞いたりした。台湾から経済人が来日した時には会いに行った。

でも、どうしても隔靴掻痒(かっかそうよう)の感がある。そんな折、亜東関係協会の幹部から耳寄りな話があった。「台湾を実際に見ないでレポートを書くなんて、おかしな話ですよね。でも、おたくの新聞社と北京(中国共産党・中国政府)との関係は私たちも承知しています。ですから、あなたが台湾に来たことは新聞にもテレビにも報道させません。報道管制を敷きます。そういう条件でぜひ台湾を見てくれませんか」。

まるで、VIP扱いである。ただ、報道管制というのは、言論の自由を標榜している身にとっては、いささか引っ掛かる。そうは言っても、いま台湾に行くにはこれしか手段がないのであれば、受け入れてもいいのではないか。僕はそう決心しながら新聞社に戻り、責任者の上司に相談した。太っ腹であると評判の人物だった。彼は腕組みをしてじっと考えてから言った。

「台湾にも『週刊文春』『週刊新潮』みたいな週刊誌があるんじゃないか。新聞やテレビが報道しなくても、万一、週刊誌に載って北京に漏れたら困る。やっぱり台湾に行っては駄目だ」。

僕は絶句した。だが、尻をまくって「こんな情けない新聞社は辞めてやる」なんてことも言わなかった。それほどの勇気はなく、この新聞社に定年まで勤めた。今は台湾のことも自由に取材し、報道するようになったが、当時はひたすら北京を怖がっていた。

特定秘密保護法は中国人の知人も心配してくれている。「都合の悪いことは国民には知らせないなんて、習近平安倍晋三は似ています。価値観が同じですよ」と皮肉られたりする。僕は「日本のジャーナリストが今後、どれだけ頑張るかが鍵です」と答えているが、さっきのようなことを思い出すと、心細くもなってくるのである。