「建前」の作文と「本音」の作文

わが塾で時々、作文の指導を集中的にやる。相手は大学生が中心だが、最初の頃はその作文の中身がなんとも面白くない。退屈なのが目立つ。

例えば、まずは書き易いものからと「父」「母」「親と子」といったテーマを与える。すると「父は私の学費を払うために一生懸命働いてくれている」「父は私がつらい時には慰めてくれる。困った時には助言してくれる」「母は私の栄養に気を遣って食事を用意してくれる」「両親は私に貴重な命を与えてくれた」といった文が続き、結論部分は「両親には心から感謝している」「恩返しをしたい」「ありがとうございます、と言いたい」ということになる。建前だけが並び、添削するのも嫌になる。

「おカネ」というテーマだと、決まって「おカネは生きていく上で欠かせないものだが、人生にはおカネでは買えないものがある」といったくだりが出てくる。ちょっと難しくして「私の職業観」をテーマにすると、これも決まって、仕事をすることによって「自分の価値を実現したい」とか書いてくる。「自分の価値を実現」って、いったいどういう意味? あなたの価値ってなに? とにかくつまらない。

こういうつまらなさも、やはりこの国の学校教育と関係があるのではないだろうか。中国人の知人から聞いた話だけど、小学校3年生の息子が学校で「自分が一番楽しい時」という作文のテーマを与えられた。そこで、彼は、授業が終わったら真っ先にグラウンドに飛び出してブランコに乗る、これが一番楽しい時だと書いた。ところが、ひとりでブランコに乗っていると、友達が次々にやってくる。ブランコを独占するわけにはいかない。交代で乗らなければならない。だから「自分ひとりでずっとブランコに乗り続けられたら、もっともっと楽しいのに」というのが彼の結論だった。

これを読んだ担任の先生が「お前はさもしい奴だ」と激怒した。ブランコはみんなで平等に楽しまなくてはいけない、独占を望んではならない。作文はそのように書き直された。「建前」である。この子は勉強がよくできるので、クラスのいろんな役職をしていたが、それも全部はずされた。いささか極端な話かも知れないが、こんな調子だと、子供たちは建前の作文しか書かなくなるだろう。

塾の生徒でとりわけつまらない作文を書く大学生の女の子がいた。添削するたびに何かと僕の感想を書いておいた。ある日、彼女が僕に向かって「先生、私の作文は全部つまらないですよね」と叫ぶ。「おお、それが分かっただけで一大進歩だよ」と答えておいたら、「トイレ」と題した作文を持ってきた。

なんでも、大学の図書館の閲覧室の両脇には2カ所、女性用のトイレがある。一方は7つの便器があるが、もう一方は2つしかない。だから、みんなは7つの方を使っている。自分もそうしていたが、ある日、並んだ行列がなかなか進まないのでイライラした。念のため、2つの方に行ってみたら、2つとも空いていた。以後、自分はもっぱらこちらを利用しているが、だいたい2つとも空いている。不思議だ――そんな中身だった。株の格言で言う「人の行く裏に道あり花の山」であろうか。

特にどうってことはないお話だけど、これまでの作文に比べれば段違いに面白い。みんなの前でも大いに褒めておいた。なんでも彼女は「どうすればいい作文が書けるか」と、わが同僚の中国人の先生に相談したら「本音を書けばいいのよ」と言われ、開眼?したらしい。それでも、トイレの話なんて、書いていいのかどうか、大いに迷ったそうである。その後、初めて化粧をしてみたら、級友の男の子から「下手だ。醜い」と馬鹿にされたとか、彼女の作文には結構笑わせていただいた。

そんなことがきっかけとなったのか、他の生徒からも読める作文が出てきた。例えば、銀行員の父を書いた文章――小さな銀行に勤める父は、体が弱いこともあって、昇進のチャンスに恵まれない。ずっとヒラで、銀行の行事に呼ばれないこともある。そんな父と銀行の忘年会に出てみたら、余興に宝くじがあった。1等の3000元は支店長に当たった。2等の1000元は次長に、3等の500元はその次のクラスの主任たちに当たった。心配になって父を見たら、表情は冷静だった。が、手が小刻みに震えていた。

やがて、4等の100元に当たった人たちが読み上げられた。何人目かに父の名前が出てきた。父はさっと壇上に駆け上り、花のように笑っていた。私も思わず笑ってしまった――そんな内容だった。僕は少し胸が熱くなった。

生意気を承知で大げさに言えば、わが塾は中国の学校教育の欠陥を正すのに少しは役立ってきたのではないか。僕はそううぬぼれている。