「1日1・5食」の試み

中国からたまに日本に戻ってくると、「太ったね」「おなかが少し出てきたわよ」と、よく家族に言われる。確かに、日本でたまたまお葬式があって、20年ほど前に作った礼服を着ようとすると、おなかの辺りが実にきつい。中国にいると、朝、昼、晩の3食をきちんと食べている。ちゃんと運動はしているつもりだが、やはり「1日3食」つまりカロリーの取り過ぎが太る原因だろう。

中国では、昔ほどではなくなったそうだが、「もうご飯を食べましたか」が一番よくある挨拶だ。朝、塾の生徒たちと顔を合わせた時にも「先生、ご飯は・・・」と来る。昔、食べ物に苦労していた頃の名残でもあろうけれど、今でもこの地の人たちの食べることへの執念は大したものだ。朝の通学時間、南寧の街でよく見掛けるのは、片手にマントウかパン、片手に牛乳かジュースを持ち、飲み食いしながら学校に向かう子どもたちだ。朝ぎりぎりまで寝ていたのだろう。

デパートの開店時刻近くに前を通り掛かると、若い女子従業員たちがやはり同じような格好で出勤してくる。デパートに着くまでに食べ切れなかったら、入り口にたむろして、立ったまま口を動かしている。店内ではさすがに飲食を禁じられているのだろうが、少し早起きして家で食べてきたらいいのに・・・。

塾に近い広西大学のキャンパスに「朝食を取りながら教室に入るのはやめよう」とか「教室での朝食は文明的か」「教室を食堂に変えるな」といったスローガンがあちこちに掲げられていたことがあった。学生たちは寮から口をもぐもぐさせながら授業にやってきて、教室の中でも口を動かしている。授業が始まっても、まだやめない輩もいるそうだ。

実は僕、日本にいる時は普通「1日2食」で過ごしてきた。ふだん午前中は大した用もないので、食べるのは朝昼兼用の、少し格好よく言ってみればブランチと夕食の2食である。それなのに、中国にいると、歩きながら食べる食欲旺盛な人たちに影響されてか、つい3食をきちんと取ってしまう。

そして「おなかが出てきた」との声を気にしながら、日本で本屋をぶらついていたら、「1日1食」、あるいは「絶食」を勧める本が何冊も目に付いた。『1日3食をやめなさい!』『やってみました! 1日1食』『3日食べなきゃ、7割治る』『無人島、不食130日』『食べない人たち』といった具合だ。「人は食べなくても生きられる」とか「不食が人を健康にする」といったコピーも付いている。

いささか過激な表現は飽食へのアンチテーゼだろうし、食べなくても生きられるとは思わないけど、ぱらぱらと立ち読みしているうちに、「ひとつ僕も1日1食を試しにやってみようか。いや、1食はちょっとつらいだろうから、1・5食はどうだろうか」と思うようになった。

103歳の医師の日野原重明さんも確か、夕食はたっぷりと食べるが、朝食はコーヒー、ジュース、牛乳にオリーブ油さじ1杯、昼食は牛乳とクッキー2個というふうに極めて簡単だそうだ。僕の場合はブランチを果物とコーヒー、ヨーグルトぐらいにする。つまり0・5食で、これに夕食が1食の合わせて1・5食。こいつをもう3か月ほど実行している。運動も適当にやっている。

おかげで、おなかは「少し締まってきた」と家族に言われるようになった。我ながらご同慶の至りである。1日1・5食は少しひもじいけれど、これには僕なりの深慮遠謀もある。つまり、南寧で塾の生徒たち何人かと一緒に住んでいた頃には、
食事で心配することはさほどなかった。朝起きると、僕の朝食が食卓にちゃんと用意されていた。昼食は適当に済ませ、夕食は代わり番に作っていたが、当番は週に1回か2回だから大したことはなかった。

だが、これからまた中国に行き、1人で生活することになった場合、1日3食となると、なかなかに大変である。僕は何でも食べられるけれど、できれば日本風の食事がいい。だが、中国の田舎のスーパーで日本人好みの食材を探すのは難しい。それでも、1・5食なら、なんとかやっていけるだろう。日本にいて将来、「独居老人」になっても、1・5食なら苦労は要らない。あれやこれや、今から1・5食に慣れておこうというわけなのだ。

で、1・5食を続けていると、毎日、朝っぱらから夕食が待ち遠しくなる。そして、やっとやってきた夕食がなんともいとおしくて、おいしい。「空腹は最高の調味料である」との西洋のことわざは本当である。。そして、おいしいだけではなく、こういう食を与えてくれた自然に対して感謝の念が浮かぶ。謙虚な気持ちになる。3食を食べていた頃には、こんな気持ちにはならなかった。

ついでにアルコールも1日にビールの中ビン1本とかにすればいいのだけど、これはとてもそういう訳にはいかない。ビールの後は清酒に焼酎あるいはウイスキー、ワイン・・・1日1・5食で得たメリットをアルコールの方で帳消しにしてしまっている。