「お別れ会」「偲ぶ会」って、どう思いますか

今世紀になってから、僕は1年のほとんどを中国で暮らしてきた。今年は何かと訳もあって大半を日本で過ごしたが、中国での暮らしにはいい点がいっぱいあった。そのいい点の一つだと言えば顰蹙(ひんしゅく)を買うだろうが、日本の知人、友人や親戚の葬式を「海外在住」を言い訳に不義理できることだった。       

だが、日本で暮らしていると、そういう訳にはいかない。それはそれで当然なのだけど、「あれっ、葬式のやり方が変わってきたな」と感じることがある。それは「葬式」は身内だけで簡素に済ませ、あとで「お別れ会」「お別れの会」とか「偲ぶ会」と称して故人の友人、知人を集めて盛大にというのが増えていることだ。以前にもあることはあったが、著名人・有名人の場合が多かった。それが最近はかなり一般化してきているみたいである。

なぜ一般化してきたのか。愚考するに――葬式は普通「葬儀・告別式」と称していて、葬儀のすぐ後の告別式で故人を送る言葉を述べるのは、せいぜい1人か2人だろう。しかし、お別れ会や偲ぶ会では知人、友人が代わる代わる故人を送る言葉を述べる。当然、どれもこれも故人を褒め称える言葉である。故人も多分それを望んでいたのだろう。言ってみれば、告別式の拡大版である。

故人にとっては嬉しい集まりだが、参会者にとってはどうか。葬式はご本人が亡くなってから普通は数日後に行われる。もし、気が進まないなら、仕事か何かにかこつけて(言葉は悪いが)サボることも難しくない。ところが、お別れ会、偲ぶ会は、結婚式の披露宴のように、ずっと先に設定され、出欠を問う手紙まで舞い込んでくる。たとえ行きたくなくても、サボる理由を探すのが難しい。

こういう会を開くために苦労する人もいる。著名人・有名人の場合なら、葬儀社に任せてしまえば苦労もそうないだろうし、会社の総務部あたりが面倒を見てくれる人もいるだろう。が、普通この種の集まりは知人、友人のうちの誰かが幹事役になって取り仕切らなければならない。その幹事役は――発起人は誰と誰にしようか、いつ、どこで開こうか、会費はいくらにするか、誰と誰に案内を出すか、挨拶は誰と誰に頼むか、その順番は・・・などなど決める事が多くて大変である。招かれた遺族は故人が褒め称えられるのを気持ちよく聞いていればいい。単純化すると、そういうことになる。

この春、僕が会社勤めをしていた頃の大先輩が亡くなった。葬儀は家族葬だったので、僕も不義理をした。何カ月か後、偲ぶ会が開かれることになった。幹事役は僕と同年輩の某君。もちろん、僕と同じく定年退職して随分と経つ。その彼との会話だけど、僕が「あの人には随分と目を掛けてもらったなあ」と言うと、彼は「いや、僕は嫌われて、何かといじめられたんだよ。その僕が幹事役なんだから・・・」と、渋い顔をしている。そう、先輩は有能な人だったけど、えこひいきも結構あった。さらに、聞いてみると、この先輩の偲ぶ会をやることになったのは、「遺族の意向」だとかで、面倒見のいい彼に幹事役が回ってきたらしい。

やはり会社勤めの頃の先輩2人と最近、久し振りに酒を飲んだ。どちらも80歳代。そして、2人が口をそろえておっしゃるには「おれたちは家族葬だよ」。つまり、かつての勤め先の関係者なんかを呼んだりはしないとのこと。「じゃあ、偲ぶ会とかお別れ会とかはどうするの?」と、僕が意地悪く畳み掛けると、「それもやらないよ」と、たちどころに否定された。

その続きで、やはり葬式は家族葬と言っている別の先輩のことが話題になった。ただ、彼は「葬式は簡単でいいが、あとでおれを偲ぶ会を開いてくれ」と周りに言っているとか。その話が出て、やっぱりあいつは俗物だ、と話が盛り上がった。学生時代の友人たち、つまり僕と同年輩のご老体と酒を飲んでいても、「最近は遺言に偲ぶ会をやってくれと書く厚かましい輩もいる」「葬式とは別に、偲ぶ会の費用として大金を用意している者もいるそうだよ」「でも、会費を取るよりも、まだ可愛いんじゃないか」と、わいわいがやがや。ここでも話が尽きなかった。

中国ではどうだろうか。あまり詳しくはないのだが、一般的には葬式そのものを派手にやるのが中国流だろう。プカプカドンドンと窓の外が騒がしいので覗いてみると、葬式の行列だったりする。もちろん、家族葬もあるようだ。知人の中国人は両親のうち父親が先になくなった時、家族葬のあと遺骨をずっと家に置いていた。そして、母親が亡くなってから、二人の遺骨を交ぜて海に撒いた。墓は「あんなものがあったら、子孫に迷惑を掛けるだけ」との両親の遺言で作らずじまいだった。日本のような派手なお別れ会、偲ぶ会の存在は寡聞にして知らない。

では、僕の場合はどうしようか。最近は「終活」とやらが流行していると聞く。僕も何かを決めておきたい。でも、偲ぶ会、お別れ会なんて、もちろんごめんだ。第一、僕を偲ぶ酔狂な連中なんて、いるはずがない。本心を言えば、葬式なんて一切やらないほうがいいのだが、それでは家族の面子がないかも知れない。あれやこれや・・・悩んでいると、なかなか死ねない。結論が出ないまま、ついつい傘寿、卒寿、白寿なんてことになってしまうのだろうか。