台湾 花蓮の旧移民村に残る「日本」

台北から台湾鉄路(台鉄。日本風に言えば、在来線)の特急で2時間半ほどで、台湾の東海岸にある「花蓮市」に着いた。有名な観光地である。台北花蓮は当日券を取るのがなかなかに難しい人気路線だそうだ。

花蓮景勝地は主に町の北方に広がり、南方はほぼ農村地帯である。ただ、ここには日本統治時代(1895〜1945年)にできた日本人の移民村の「歴史」が色濃く残っている。移民村は台湾各地にできたが、花蓮の町近くでは南へ向かって「吉野村」「豊田村」「林田村」がある。本来は先住民族の土地で、1910年(明治43年)、日本からの移民によってまず吉野村ができた。四国の吉野川沿いの人が多かったので、そう名付けられたという。その2年後に豊田村、さらに2年後には林田村が誕生した。

民宿の日本人経営者Kさんの車に乗せてもらい、ほぼ半日かけて3つの村を回ってみた。元は日本企業の駐在員だったと言うKさんは60歳代半ば、この地で民宿を始めて12年になる。


3つの村の中間にある旧豊田村で、車の前方に鳥居らしきものが見えてきた。近づくと、古びてはいるが、まさしく神社の石の鳥居である。ただ、そこには、神社の名前ではなく、碧蓮寺という寺の名前が掲げてある。そんな奇妙な鳥居をくぐり抜けてしばらく進むと、派手な建物が現れた。かつてはそこに神社の本殿があったのだろうが、日本の敗戦後に壊れたか、壊されたかして、台湾式の寺になっている。上の写真がその鳥居と寺である。


さらに南方に走って旧林田村に入ると、今度はまだ新しそうな石の鳥居が現れた。地元政府が少し前、日本統治時代の神社跡に再建したとのこと。その狙いはよくは分からないが、鳥居を囲む塀も新しい。鳥居を2つくぐり、奥まで進んだ。本殿は廃墟のままである。だけど、鳥居を新しく設けたところから見ると、いずれは本殿も再建されるのかも知れない。廃墟の本殿を囲む何十本かの石柱には、日本人の名前が記されている。字がかすれて、判読が難しいものもある。神社を造った当時、寄進した村民の名前だろう。上の写真がその鳥居と本殿跡である。

豊田、林田の2つの移民村には、神社の鳥居のほかにも様々な「日本」が見られる。上の写真は当時の小学校教員の宿舎である。今は廃屋だが、外観からは最近まで使われていた感じもする。こうした当時の住居がそこかしこに残っている。また、当時の警察の派出所は頑丈な造りだったのだろう、今も資料館など村の施設として現役で働いている。

当時、村民たちによって建てられた「開村三十周年記念」という石碑と並んで、台湾側が最近建てた「開村百年紀念」の石碑もある。旧林田村にあった台湾側のそれを読むと、177戸、767人の移民がいたとのこと。また、林田村の米作りは最初は陸稲だったが、移民たちの手によって灌漑設備ができ、水稲が可能になったとある。そして、文面は「移民たちの海外雄飛は日本の敗戦によって一場の夢と消えた」と締めくくっている。

3つの村のうち最初にできた吉野村にあった「真言宗吉野布教所」は長らく廃れていた。だが、近年になって、これも地元政府の手で復元され、上の写真のような本堂ができている。今の名前は「真言宗高野山慶修院」と言う。この復元に日本側がどの程度、絡んだのかはよくは知らないが、境内には弘法大師の像もある。四国八十八ヶ所の石仏がずらりと並べられ、お手軽に巡礼ができるようにもなっている。土産物屋もあり、安産だるまや下駄などが並んでいて、結構にぎわっている。5月5日にはこいのぼりも上がるそうだ。

この慶修院の裏手の壁には、当時の移民たちの写真が10枚ほど並べられていた。そのひとつが上の写真で、「清水農園栽培場での子供たち」という説明がついている。みんな屈託のない笑顔である。「吉野小学校(現在の吉安国民小学校)三年級」との子供たち50人ほどの集合写真もある。日本人の移民村にできたこの小学校は、100年以上過ぎた現在も名前を変えて続き、台湾人の子供たちが学んでいる。「吉野村運動大会」の光景や「吉野村 須田家族」「吉野村開拓農民 昭和16年清水家」と称した家族写真もあった。夫婦と2人の娘の4人家族や老若男女12人の大家族が写っている。どこから見つけてきたのだろうか。

もちろん、これらの移民村がすんなりと誕生したわけではない。台湾の先住民族と日本の警察官との衝突事件もあり、かなりの死傷者が出ている。その事件の顛末(てんまつ)を記した碑も立っている。ただ、それを読んでも、先ほどの旧林田村の開村百年紀念碑を見ても、先住民族の土地に押し寄せた日本人移民に非を鳴らす感じはあまりしない。ただ「史実」を述べている。

村々を案内してくれたKさんも「あれは歴史だからと、先住民族の人たちは淡々としています。逆に、私が日本人だと分かると、少し大切にしてくれたりして」と言う。何か申し訳ない気にもさせられた移民村巡りだった。