謹賀新年  僕の外国語「遍歴」

明けましておめでとうございます。
本年も何とぞよろしくお付き合いのほどをお願い申し上げます。

新年を期して、独学で韓国語の勉強を始めた。なに、厳しい日韓関係のもとで韓国をよく知ろう、とかいった高い志からではない。いつ頃からか、電車の駅名などにハングルでの表示が随分と増えてきた。だけど、僕にはあれが全く読めない。馬鹿にされている気にもなる。せめて発音くらいはできるようになりたい。その程度の思いからである。

ハングルの五十音表を眺めながら、これまでに接した外国語のことが頭に浮かんできた。僕が初めて英語を習ったのは、小学校3年生の時である。同世代に比べると、かなり早い。僕はそれまで大阪府の東のはずれにある村の小学校に通っていた。ところが、教育熱心だった母親が「こんな百姓の子たちと一緒ではあかん」と差別発言をして2年生の3学期の終わり、大阪城の近くにあった私立の小学校に転校させられた。敗戦から間もない頃で、まだ焼け野原が広がっていたが、児童は紺のスーツに赤いネクタイ、牛革のカバンと靴で通っていた。僕以外はみんな金持ちの子どもたちだった。英語の授業ではアルファベットは出てこず、もっぱら発音記号だけを使っていた。理由は分からない。

そして、4年生の2学期になった時、母親が今度は「こんな金持ちの子たちと一緒ではあかん」と言い出し、奈良市の公立の小学校に転校させられた。自宅は同じ所なのに、学校だけは3つ、「孟母三遷の教え」の変形でもあろうか。大阪も奈良も1時間ほどかけて電車で通った。奈良の公立小学校では英語の授業なんて、あるはずもない。大阪の小学校で習った英語は完全に忘れてしまった。次に英語に接するのは、中学校に入ってからである。

話は少し飛んで、僕が新聞社にいた30歳過ぎのことである。外国の経験と言えば、私費でイギリス旅行をしたくらいしかない。そんな頃、東ヨーロッパのブルガリアなる国から新聞社あてに「記者を1カ月、費用は当方の負担で招待する」という話が舞い込んだらしい。上司が「これ、君が行ってこい。通訳もつくみたいだ」と言う。のんびりとしたラクチンそうな出張である。ブルガリアの首都ソフィアの空港に着くと、通訳が迎えに来ていた。僕より10歳ほど若そうな青年である。彼は英語で話しかけてきた。エッ、通訳って、日本語を話すんではないの? 

それから1カ月、彼と毎日、英語で話す羽目になった。かたこと英語の僕が言うのも変だが、まだ大学生の彼の英語は実に流暢である。父親は外交官で、そのおかげもあるだろう。自宅にも招かれ、楽しく過ごした。そして帰国の日、空港まで送ってくれた彼が別れ際に言った言葉が、ほぼ半世紀が経った今も忘れられない。

「You can improve your English」だった。直訳すれば「あなたはあなたの英語を改善できる」あるいは「上達させられる」である。くだけた言葉で言えば、「あんた、もうちょっと、英語を勉強したらどうなの?」だろう。だけど、彼の忠告にも関わらず、その後improveが全くなされていないことは確かである。

英語以外にもいくつかの外国語を学んできた。大阪の府立高校に通っていた時にはドイツ語に接した。2年生になった時、英語ばかりが外国語じゃない、とドイツ語の授業も始まった。僕を含めて10人ほどが受講した。英語の授業のうち何時間かをドイツ語に充てるというやり方だった。当然、英語がおろそかになる。3年生になる時に考えた。大学受験は英語で受けるのだから、ドイツ語なんかに時間を取られていては損だ。そんな近視眼的な連中は僕ばかりではなかったようで、ドイツ語の授業は1年間で終わってしまった。

大学1、2年生の時は「第2外国語」にフランス語を選んだ。日仏会館というところに通って、フランス人の先生から会話を習ったりもした。あまり授業に出てこない同級生には試験前、フランス語を教えてやった。卒業後、商社に就職した彼はやがて、フランス語圏の国に赴任したから、僕のお粗末な語学力も少しは役立ったのだろう。そのフランス語もドイツ語もすっかり忘れてしまっている。

そして、新聞社を定年退職して中国の大学でボランティアの日本語教師になった2001年前後からは、中国語を学び出した。最初に赴任した北方のハルビンの大学では、日本語科の教授から「60歳を過ぎてから新しい外国語を学んでも、ろくに上達しません。それよりも日本語の授業に力を入れてください」と嫌味?を言われながら、ロシア人の留学生と一緒に中国語の授業を受けた。南方の桂林の大学に移ってからは、ベトナム人の留学生と一緒だった。日本にいる時には、日中学院に通ったりした。

そして5年前、日本で中国語の3級の検定試験を受け合格した。もっとも、一応15年間も勉強しながら、ランクでは真ん中くらいの3級とは情けない限り。しかも、しばらく置いて受験した2級は惨敗した。そのショックもあり、またコロナ禍で中国や台湾に行けなくなったので、以後、中国語の力は随分と落ちてきている。

そして今、恥ずかしげもなく、韓国語を始めようとしている。あ、そうだ。かの大谷翔平選手に見習って、中国語の復習と韓国語への挑戦の「二刀流」で臨むのはどうだろうか。
以上、例によって、いつ挫折するかは分かりませんが、新年の抱負であります。