あなたは新聞を読む時、(もっとも、最近はスマホに押されてか、新聞を読む人が随分と減っているけど、それはそれとして)まずはどこから見ますか? 第一面? 社会面? スポーツ面? テレビ・ラジオ面? 僕の場合はどれも当たらない。自宅では、その昔に働いていた朝日新聞だけを定期購読しているが、いつごろからだろうか、まず新聞の最後のページの右上にあるその日の「ページ数」つまり「厚さ」から見始めるようになった。
今日は28ページ? 随分と薄いなあ。広告が取れなかったせいだろう。経営は大丈夫かな。そして、ある日は38ページ。おお、今日はいいなあ。新聞を繰ってみると、8ページ前後にわたっていろんな大学の広告が載っている。学長たちが「我が大学」を宣伝している。読みたくもないけど、まあ、それはそれで悪くはない。新聞社の広告の担当者が苦労して集めてきたのだろうか。あるいは、仲間うちのテレビ朝日の広告が載っている。大きくなった子供から仕送りしてもらっているみたいだなあ。そうかと思うと、朝日新聞がやるシンポジウムのお知らせだったりする。こちらは自分で自分の脚を食っている感じだ。
新聞は「記事」と「広告」から成り立っている。現役の記者だったころ、読者から「新聞は広告が多くてうるさい。広告がなかったらいいのに」と言われたことがある。でも、新聞社の収入は「購読料」と「広告料」が半々と言われてきた。つまり、広告をなくして記事だけの新聞にすれば、読者に売る新聞代は2倍になる。今もそう違いはないだろう。そして、広告が少なければその分、記事の量も少なくなってしまう。その広告の量がこのところ、インターネットに押されてか、減る一方である。当然、記事もその影響を受ける。
例えば、「科学」と「文化」の面が同じページの上下に半々で載っている。本来なら、科学面も文化面もそれぞれ1ページを占領していて、その下に広告が載っている。それでこそ、新聞社の経営も成り立つ。採算を度外視して、記事だけというのは、新聞社の経営上は難しいことだ。科学面と文化面が同じページにあるのは、新聞社として苦肉の策であろう。広告の減少が原因で、最近の新聞はだんだん薄くなってきているようである。
試みに、この11月1日から7日までの朝日新聞朝刊のページ数(別刷りを除く)を書き出してみた。
30 30 38 30 38 30 30 である。
次に、僕がこの新聞社を定年で辞めた2000年11月の1~7日の朝刊ページ数(同じく別刷りを除く)を縮刷版で調べてみた。
40 40 40 36 40 40 40 である。
20年余りの間に朝刊のページ数は激減している。
朝日新聞には夕刊もある。これについても、2000年と今年の11月1~7日について、ページ数を調べてみた。すると、2000年には毎日(日曜、祝日を除く)16~20ページあったのが、8~10ページへと半減している。8ページ、つまり「紙2枚」の新聞なんて、繰っていて可哀想で涙が出てくる。配達してくれる人に申し訳なくなってくる。
他の新聞についても、この11月1~7日について調べた(経済紙の日経は数字だけの紙面が多いので除いた)。すると、読売の朝刊ページ数は朝日とほぼ拮抗しているが、毎日、産経、東京はともに連日、30ページを切っている。22ページ、20ページなんて日もある。夕刊はやっと連日8ページ、産経は東京本社管内では夕刊そのものを止めてしまっている。他人事ながら、経営は大丈夫ですか、頑張ってね、と言いたくなる。
そうは言っても、「紙」媒体としての「新聞」は今後どうなっていくのだろうか。部数はどこまでか分からないが、減らざるを得ないだろう。例えば、10年ほど前には800万部あった朝日新聞の部数はいま399万部と、半減している。部数が減れば広告も減る。当然、収入も減る。そこで、人件費を減らすため、中高年社員を対象にした「肩たたき」も頻繁に行われている。新聞社は同じニュース配信でも「紙」ではなく「デジタル」がこれからの生きる道と思い定め、いろいろ頑張っているが、前途はまだ見えていない。
思い起こせば、僕は紙の新聞という「商品」が健在だった時期に40年近く、新聞社に在籍していた。そして、新聞の将来がこれほどまでに楽観できないとは、能天気なことに全く思っていなかった。食い逃げしたみたいだ。これからは、せめて電車の中ではスマホなぞではなく、新聞をこれ見よがしに読んで、少しでも罪滅ぼしをしていこうと思っている。