わが栄光!?のサッカー歴

サッカー・ワールドカップ(W杯)カタール大会で、日本は念願の8強進出は逃したものの、優勝経験のあるドイツとスペインに勝ち、世界的にも高い評価を受けている。そして、これまでの日本サッカーの成長について語る時、ドイツ人のコーチだったデットマール・クラマーさん(1925~2015)の名前が「日本サッカーの父」として必ず出てくる。下の写真の中央がそのクラマーさんだ。(11月22日付朝日新聞夕刊から。写真は1963年当時のもの)

クラマーさんは1964年の東京オリンピックを控えた60年、ドイツから日本サッカーの指導者として招かれた。その熱心な指導のおかげだろう。日本は東京オリンピックで8位に入賞し、4年後のメキシコオリンピックでは銅メダルを獲得した。釜本邦茂選手が得点王にもなった。

そのクラマーさんは日本代表クラスの選手を指導するだけではなく、日本サッカーを底上げするため、大学生たちの相手もしていた。確か、1961年の夏だったと思う。クラマーさんが京都で関西の大学から数人ずつの選手を集めて合宿したことがあった。実は僕もその合宿に参加し、クラマーさんからボールの蹴り方、止め方、パスの仕方など基礎から直々の教えを受けていたのである。

当時、僕は国立大学のサッカー部に所属していて、3回生だった。大学入学後に初めてボールを蹴った僕は、生来の運動神経の鈍さも影響して、まだ補欠だったけれど、わがチームの主力選手に交じって、クラマーさんの合宿に参加するメンバーに選ばれた。

クラマーさんの話したことで今も僕の頭に残っているのは「ドイツ人にゲルマン魂があるように、君たち日本人には大和魂があるはずだ」、あるいは「君たちに大和魂はあるのか」と、僕たちを叱咤するような言葉だった。「大和魂」は普通なら「日本人らしい勇敢で潔い精神」といった意味だろうが、当時は第二次世界大戦での敗戦からまだ20年も経っていなかった。「大和魂」という言葉からは、戦争中の戦意高揚のスローガン「撃ちてし止まむ(止まん)」が思い出され、表立って使うのがはばかられた。

だが、闘争心の必要性を正面切って唱え、僕たちを励ましたクラマーさんに、僕は畏敬の念のようなものを感じた。同じように戦争に負けても、ドイツ人はこうなんだと思い知らされた気もした。あるいは、クラマーさんは身長160センチほどの小柄な方だった。選手時代、身長が20センチも30センチも高い相手と渡り合うには、人一倍の闘争心が必要だったのだろう。

ところで合宿中、クラマーさんの指示に従って、模範演技を披露する若者が2人いた。サッカーの強豪校だった京都府立山城高校の2年生と3年生で、うち2年生は先ほどちょっと触れた釜本邦茂君である。高校生の模範演技を僕ら大学生が眺めるなんて、実に情けない光景ではあった。だが、それだけ彼らが抜きんでた才能を持っていたということである。

かくして、何日間かの合宿が無事に終わり、僕も4回生になった翌年、やっと正選手になれた。ポジションはフルバック、今でいうサイドバックである。ただし、当時と今とでは、やっていること、求められていることが大違いである。例えば今、日本代表のサイドバックである長友佑都選手は、36歳という年齢にもかかわらず、自陣のゴール前で相手の猛攻を迎え撃っているかと思うと、最前線に飛び出して得点争いに絡んでいる。

ところが、当時のフルバックは(僕だけではなく)中間線を越えて攻め入るようなことはまずなかった。一方、フォワードも自陣のゴールまで戻ってきて守るということもなかった。分業体制が出来上がっていた。もし、僕が当時、今のサイドバックのような動きをしていたら、さぞかし面白かっただろうなあ、と思ったりする。あの頃、練習はきつかったけど、試合は楽だったという記憶がある。体力的にはそう問題はなかったはずだ。でも、そんなことは全く思いつかず、能天気に分業に甘んじていた。

上の絵は当時、普通だったWMフォーメーションという奴で、フォワード5人がW型、バックス5人がM型で並んでいる。お互いこの型で、大した疑問もなく戦っていたのである。(フリー百科事典「ウィキペディア」より)

僕は新聞社に入ってからも、会社のサッカーチームで60歳まで現役でプレーしていた。50歳ごろには、他のチームの連中と一緒にスペイン、イタリアやカナダに遠征したこともある。だが、欧米では年を取ってからも実際にボールを蹴るような人はあまりいないようで、随分と若い連中の相手をさせられた。おかげで戦績はイマイチだった。そこで、ふと思った。「40歳、50歳、60歳以上のワールドカップをやれば、日本が優勝できるのではないか」。企画書を作り、日本サッカー協会にも持ち込んだ。専務理事あたりから「面白い。応援します」程度の言葉は引き出したが、僕の突破力不足で結局は挫折。「日本サッカーの父」ならぬ「世界シニアサッカーの父」になる機会を逃してしまった。

新聞社を定年後、僕は中国の大学に行ったので、仲間や相手がいなくなり、サッカーからは遠ざかって行った。だけど、その頃一緒にやっていた連中は、80歳代になっても、まだボールを蹴っている。最年長は88歳で、おまけに何年か前には脳梗塞で一度、倒れているのに、まだめげていない。サッカーというのは、まるで「魔物」のように人を引き付けて離さないスポーツのようである。