わが「苦学生」時代と奨学金の返済

学生時代に借りた「貸与型」の奨学金を返せず、それを苦にして自殺する人がいる。警察庁などのまとめでは、2022年にそんな人たちが10人いた。「人数は氷山の一角だ」との指摘もある。かつて貸与型奨学金の世話になった僕にとって、他人事とは思えない。

大阪生まれ、大阪育ちの僕は1959年に京都の大学に入った。大阪から通えないこともないが、大学に入ったからには、勉学は落第しない程度にして、スポーツ、それもサッカーを一生懸命にやりたかった。当時、ワールドカップには無縁のサッカー後進国日本でも、1964年の東京オリンピックを前にサッカーが盛んになりつつあった。

大学のサッカー部の練習は午後の授業が終わってから日没まで続く。大阪から京都まで通学していては当然、サッカーに打ち込む時間はない。だから、ぜひ京都に下宿(間借り)したかった。1か月の生活費は1万円ほどかかる。親に言うと、OKはしてくれたものの、仕送りできるのは月3000円が限度で、あとは奨学金とアルバイトで何とかしてくれとのこと。僕の下には3年おきに弟が2人いる。まあ、仕方のないことだった。

ちなみに、京都でいま子供を下宿させている知人に聞いたら、月に要る生活費は15万円ほどとのこと。大ざっぱな話だけど、京都での若者の生活費は、僕が暮らした時代のざっと15倍ほどになっている。

話はまた昔に戻り、僕は毎月、どこかから7000円ほどを工面してこなければならなくなった。ひとつは家庭教師だ。当時はまだ大学生が少なかったから、3000円やそこらは稼げるだろう。もうひとつは大阪府の月4000円という当時としては高額の奨学金が狙いだった。もちろん貸与型であるが、僕がこの奨学金をもらえないはずはない。

ひとつには、僕は極めて優秀な成績で大学に入っている。多分、合格者の上位1割以内にいるはずだ。ふたつには、家が貧しい。父はもともと大阪府庁の役人で、農業関係の課長をしていたが、40歳代の半ばで退職し、某私立大学の総務課長に転じた。将来を考えてのことだったろう。結果的にはそれがよかったとは思うのだけど、母が当時、「給料が半分になってねえ」とぼやいていた。僕が大学に入ったのはそれから10年近くあとだったが、家の貧しさは相変わらずだったのだろう。

こんなふたつの「好条件」に恵まれた僕だったが、奨学金の選考にはあえなく落選した。信じられない。何かの間違いではないか。僕は父に「府庁に行って、事情を調べてきてほしい」と言った。その何日か後、府庁から戻った父に「どうだった?」と聞くと、父は「入学試験の成績が悪かったからだ」だとしか言わなかった。その時の父の険しい顔が今でも浮かんでくる。

ショックだった。入学試験の成績は上位1割以内と思っていたのに、下位1割以内だったのか? いや、最下位だったことも考えられる。ただ、僕もこのことで少しは賢くなった。自分から「成績がいい」「仕事ができる」と言う人間は、いっさい信用しなくなった。僕と同じく自分のことが分からない馬鹿に違いない。

大阪府奨学金については、何か月か後に二次募集があり、僕はなんとか合格した。父が昔の府庁時代のコネを使い、裏から手を回したのかもしれない。

かくして始まった大学生活だったが、3回生(3年生)のあの夜の「空腹」は、今でもたまに脳裏に浮かんでくる。深夜、腹が減って、下宿から出て屋台のラーメン屋に向かった。1杯食べたが、腹はすいたままだ。もう1杯食べたい。でも、そんなことをしていたら、明日以降の食費が大変だ。我慢しよう。よし、大学を出たら、ラーメンを2杯でも3杯でも食べられる人間になってやるぞ。そんな大志?を抱いたのである。

そんなふうに、豊かな生活ではなかったものの、そう悲惨でもなかった。僕と同じ下宿で襖1枚の隣の部屋に住んでいたサッカー部の同輩は、僕以上に苦学生だった。ある時は、ひと月の家賃3000円が払えなくなり、家主に謝りに行った。すると、「大変でしょうね」と、何千円かの生活費を貸してくれたそうだ。

1963年春、僕は新聞社に就職し、奨学金の返済が始まった。月々2000円だった。当時、僕の本給は手取り2万円ほどで、ほかに打ち切りの時間外手当が1万数千円あった。収入は学生時代の3倍以上に増えている。月に2000円くらいの返済なんて、どうってことはない。いま返済に苦しんでいる人たちに比べると、実に恵まれていた。天引きされていることを忘れるほどだった。

何年返済した後だったかは忘れたが、ある日、母から連絡があり、「あんたはもう奨学金を返済しなくてもいい。こちらで返しておくから」とのこと。思うに、弟2人も大学を出て家計にいくらかゆとりができた。本来は親が出してやりたかったカネを子供に返済させるのは可哀想だ。そう思ったのだろう。僕は特には深く考えずに、母の申し出に従った。

だけど、思うに、僕は別のことを母に伝えるべきだった。「月に2000円なんて、僕には何でもないよ。これからも僕が返していく。母さんはその分で何か欲しいものでも買ったらどうなの」。もし、母にそう言ったら、どんなに喜んでくれたことか。なのに、僕は何も言わなかった。それから半世紀以上も過ぎたのに、当時のことを思い出すと、今なお悔恨の念にかられるのである。