組織人と自由人…どう折り合いをつけて生きるか 

藤沢周平氏(1927~1997)の時代小説を最近、暇に飽かせて読み返している。その中に「用心棒日月抄」という4部作がある。北国の小藩の藩士、青江又八郎が様々な理由でざっと20年ほどの間に4度にわたって脱藩を強いられる。脱藩している間は素浪人である。そして、江戸での用心棒稼業で糊口をしのぎながら、生きていく物語である。

青江又八郎の本来の雇い主である藩は冷たい。時には密命を与えて無理やり脱藩させながら、生活の面倒をみるのは故郷に残した家族だけで、又八郎自身には知らぬ顔である。彼は江戸の口入れ屋(今で言えば、ハローワークか。ただし口入れ屋は個人の店である)で、用心棒あるいは人足など仕事を探すしか生きる道はない。ある時は何日も仕事がなく、粥だけで生き延びている。

それなのに、同じ長屋に住む夜鷹が怪しげな男に付け狙われていると聞き、救うためにひと肌脱ごうとする。口入れ屋で知り合った同じ素浪人との間に友情が生まれ、助け合うこともある。読者にとっては、又八郎のそうした生き方が爽快に思えてくる。又八郎自身もそんな生活を楽しんでいるように見える。

こうした又八郎のことを、文芸評論家の川本三郎氏は「用心棒日月抄」末尾の解説で「二つの顔を持っている。北国小藩の藩士としての顔と、脱藩して江戸に出た素浪人としての顔である。組織人と自由人の二つの面を併せ持っている」と書いている。インサイダーとアウトサイダーとも言える。

組織人と自由人…その二つの立場にどう折り合いをつけて生きていくか。これは現代にも大いに通じる話ではないか。組織人であっても、どこかで自由人として生きる。言い換えれば、息を抜く必要がある。年がら年中、組織人では、息が詰まってしまう。組織に締め付けられ、揚げ句は自死するまでに追いつめられる話が絶えないだけに、そんな気がし、自分の来し方にまで思いが及んでしまった。

すると、僕は案外、青江又八郎ほど豪快ではないし、小説のネタには決してならないけど、組織に属しながら、自由人として過ごした期間もなくはなかったなあと思えてきた。僕は22歳から60歳になるまで朝日新聞社にいた。入社した頃、ここには「戦前戦中の愛国心に代わって、これからは愛社心を持つように」なぞと叫ぶ変な編集局長もいたが、ちょっと知恵を働かせれば、しばらくの間でも組織人から自由人に変わることができた。

例えば当時、10年間勤続すれば、1カ月近い有給休暇をもらえる制度があった。ところが、この制度を利用した者はかつて誰もいないとか。思うに、休暇を申し出るのが怖かったのだろうか? 僕はそんなことはなかったけど、少し知恵を絞った。「この制度を利用し、イギリスに行って英語を勉強してきます」。まんざらの嘘ではなかったけど、組織から何の連絡もない自由人の生活を味わってきた。当時の会社の役員会では「最近の若い社員にはおかしな奴がいる」と話題になったそうだ。

そのうちに、タンカーに乗って大海原を渡りたくなった。船会社に学生時代の友人がいる。これもちょっと知恵を絞った。「夏休みに船に乗せてほしい。必要なカネは個人で払う。遊びだけど、あとで航海記を書いて新聞に載せる」と彼に持ちかけると、快諾してくれた。1年目は東京―台湾―香港―シンガポールと乗り、2年目はシアトル―東京だった。必要なカネと言っても、シンガポールからの戻りとシアトルまでの行きの航空運賃以外は、船中でのわずかな食費くらいだった。航海記を書くのに特に取材することもない。寝転がっていれば、材料は自然に耳に入ってくる。これも組織から解放された2週間だった。

次いで、外国をちょっと長めに歩いてみたくなった。とりあえず、日本の奈良から中国の西安(昔の長安)まで歩くのはどうか。かつて遣隋使や遣唐使が通った道だ。ただし、休暇を取って自腹で歩くのは、期間も長いし、大変だ。新聞社の企画にして、いろんな人を集め、団体で歩いて行こう。自腹を切らないで済む。

スポンサー集めには少し苦労したが、これも数年おきに2回にわたって実現した。総距離3000km、うち陸路1500km。2カ月以上せっせと歩いた。本社との連絡用に、当時はまだ目新しかった携帯電話を持っていたが、気持ちは自由人である。あとで、飲み屋の女将から「あんた、組織を利用して遊んでるんじゃないの?」と言われてしまった。

他にも、いろいろと思い出すことがある。定年まで社内のチームでサッカーをやっていた。毎夏の長野県霧ケ峰での合宿は楽しかったなあ。社外の人たちとも一緒になってスペイン・イタリアとカナダに遠征し、地元のチームと対戦したのも楽しかった。一方で、40年近い間、組織人として何をしてきたか、どんな貢献をしたか、思い出すことがそんなにない。雇い主に申し訳なかった気もする。
 
定年退職後は中国ハルビンと桂林の大学で日本語の教師をしたが、宿舎は提供してもらう代わりに、給料なしのボランティアだった。自由人でもない、組織人でもない、両生類みたいな存在で、これはこれでまた楽しかった。

そして今は全くの自由人である。我が人生の思い出に、一度は完璧な組織人として、しゃにむに組織のために働いてみたいとも思うのだけど、どこからもお声が掛からない。人生は思い通りにはいかないものである。

(編集者のうっかりミスで、更新が遅れました)