僕の「戦争」の思い出

新聞の投書欄には戦前、戦中生まれの人たちによる「戦争」の思い出がよく載る。そうだ、昭和15年(1940年)11月生まれの僕にも、それを残しておく資格、いや義務があるのではないか。また8月15日を迎えて、ふと、そんな気がした。年齢のせいもあるだろう。

当時、僕は大阪府の東のはずれ、生駒山麓の標高100メールほどのところに住んでいた。大阪市内から近鉄電車で20分ほどの村で、自宅2階の西側にある窓からは、大阪平野がそれこそ一望のもとに見渡せた。自宅の東側にある標高600メートルほどの生駒山を越えれば奈良県に入る。そんな田舎だったから、米軍機の爆撃を受けることはなかった。ただ、それなりの思い出はある。

昭和20年(1945年)3月10日は米軍による東京大空襲の日だった。この日の午前零時すぎ、300機のB29爆撃機と33万発以上の焼夷弾によって、約10万人が殺された。3日後の13日深夜から14日にかけては大阪が最初の大空襲に遭い、やはり300機近いB29爆撃機によって、東京に比べれば少ないものの、約4000人が殺された。

その日、満4歳9か月の僕は自宅の2階の窓から大阪大空襲を眺めていた。僕のいる場所と大阪市との間には暗闇が広がっていたが、その先の大阪市は北から南までがまさに「火の海」だった。だけど、「怖い」「恐ろしい」と思った記憶はない。むしろ、「奇麗」と感じていたように思う。花火を眺めているような感覚だったのかもしれない。火の海を逃げまどい、焼き殺されている人たちのことは全く想像できなかった。

傍らには30歳代後半の父がいた。大阪府庁の役人だった。父が火の海を見渡しながら言った。「あ、あの辺りは親戚がいる。やられたかもしれない」。翌朝、父はいつもより早起きし、その親戚の家に向かった。当時、普通の家庭には電話などはなく、直接、訪ねて行くよりほかに方法はなかった。その後、親戚の被災については何も聞かなかったから、どうやら無事だったらしい。

大阪大空襲は8月15日の敗戦までに合わせて8回あった。そのうちのどの空襲の後かは定かでないが、ある日の夕方、父が小学校高学年くらいの一人の男の子を連れて家に戻ってきた。男の子は空襲で焼け出されて家族と離ればなれになり、大阪市内の近鉄電車のターミナルを一人でうろついていたらしい。とりあえず夕飯を食べさせ、玄関の上り口の3畳間に布団を敷いて寝かせた。翌朝、僕が3畳間をのぞきに行くと、男の子は布団をきちんとたたんで、畳の上に正座していた。朝食のあと、父は男の子を連れて出勤していった。

男の子はその後、どうなったのだろうか。父は僕には何も話さなかったし、当時の僕には尋ねてみようという考えも浮かばなかった。それから父が亡くなるまでにはまだ40年もあったのだから、聞いておけばよかったと悔やんでいる。

空襲のないわが家ではあったが、「空襲警報」だけはよく鳴り響き、そのたびに防空壕に駆け込んだ。家のすぐ裏には高さが30メートルほどの小山があり、そこに奥行10メートルくらいのかなり長い防空壕が掘られていた。他人の持ち物に勝手に穴を掘っていたわけだが、文句が出たという話は聞いていない。

8月15日のことも少し覚えている。昭和天皇の「玉音放送」は全く記憶がないが、昼過ぎ、庭先で一人で遊んでいると、坂の下のほうから「戦争は終わりました」と、大声で繰り返す男性の声が聞こえてきた。村役場の職員か誰かだったのだろう。僕は戦争で格別の被害は受けていなかったけれど、「ああ、よかった」と、開放感のようなものを感じた。

戦争が終わって、まだ間もない秋ごろだったと思う。あるいは、もっと後だったかもしれない。奇麗なお姉さんが近くに間借りした。着ているワンピースは華やかで輝いていた。近所の女性たちはまだくすんだモンペ姿だった。そんな中ではとても目立った。何がきっかけだったか、僕はお姉さんと親しくなり、ときどき彼女の部屋に遊びに行った。見たこともないようなお菓子を食べさせてくれた。いろんな小物もくれた。お菓子も小物も輝いていた。

ある日、僕と母は、家の近くに借りていた畑で農作業をしていた。そこに、さっきのお姉さんが通りかかり、お互いに声を上げて手を振り合った。僕は彼女のところに飛んで行った。ところが、母はなぜか険しくて不機嫌な顔をしていた。なぜだろう? 不思議に思ったが、母は何も言わなかった。

随分あとになって思ったことだが、奇麗なお姉さんは多分、米軍将兵相手のその種の女性だったのだろう。「パンパン」「パン助」あるいは「オンリー」「オンリーさん」などと呼ばれる日本人女性がいた。当時30歳代半ばだった母は、そのことを僕に告げることもできず、ただ険しい顔をするのが精いっぱいだったのかもしれない。

彼女はいつの間にか、近所から姿を消してしまった。新聞の投書欄に載る話とは迫力において比べ物にならないけれど、僕には彼女の「ワンピース姿」と、さっきの男の子の「正座姿」が、70年以上が過ぎた今も、脳裏にくっきりと残っている。