戦争の被害者、加害者……

30年ほど前に公開された『火垂るの墓』(ほたるのはか)というアニメーション映画がある。一昨年に亡くなったスタジオジブリ高畑勲監督の作品で、原作は野坂昭如直木賞受賞作。ご覧になった方、読まれた方も多いだろうが、粗筋をざっと紹介すると――

日本の敗戦直前の1945年6月5日の神戸。350機編隊のB29による空襲を受ける。神戸空襲は3度目だ。中学3年生の清太は家を焼かれ、4歳の妹節子を背負って逃げ惑う。病身の母はあらかじめ、消防署裏のコンクリート製の防空壕に避難させておいたが、それもむなしく空襲の犠牲になる。海軍大尉の父は巡洋艦に乗り組んだまま、音信がない。

結局、清太と節子は親同士の事前の約束で、神戸に近い西宮の遠縁の親戚に引き取られるが、食糧難のせいもあって、陰湿ないじめに遭う。耐えきれなくなった二人はこの家を出て、空いていた壕で自活を始める。親が残してくれたいくらかの蓄えはあったのだが、中学生と幼児だけのそんな生活が長続きするはずがない。周りを飛び交う無数の蛍だけが、兄妹の毎日に彩を添えていた。

空襲から2か月あまり経った8月22日、慢性の下痢に悩まされていた節子は、骨と皮にやせ衰えて死んでいく。清太は行李に節子の亡骸を入れ、大豆の殻や枯れ木に火をつけて、荼毘(だび)に付す。

父のいた連合艦隊も絶滅したと聞かされた清太は絶望し、もはや濠には戻らない。省線(今のJR)三宮駅構内のコンクリートむき出しの柱にもたれかかり、浮浪児生活を送るようになる。節子と同じように下痢が続くが、腰が抜けて、駅の便所に行くのもままならない。そして、妹の死から1か月後の9月22日午後、駅構内で野垂れ死にする。

――僕はこのアニメを何度も見たし、見るたびに目頭が熱くなる。「涙なしには見られない」「涙が止まらない」ともよく言われる。そして以前、中国ハルビンの大学の日本語科で教えていた折には、担任していた学生たちにも必ず見せた。
ある時、見終わってから、一人の女子学生が「先生、私はこのアニメが好きではありません」と声をかけてきた。よくできる学生である。「可哀想すぎるから?」と問い返すと、「いえ、日本人をまるで戦争の一方的な被害者であるかのように描いているからです」。なるほど、日本の侵略を受けた中国人からすると、そう思えるのか。僕は一瞬、反論も何もできなかった。

もちろん日本人もすべてが加害者だったわけではない。現に、1972年の日中国交正常化の前、中国国内には「我々を侵略した日本となぜ国交を結ぶのか」との反対論も根強かった。それを当時の周恩来首相が「日本人すべてが悪いのではない。悪いのは日本の軍国主義で、日本人の多くもまた被害者だった」と説得したそうだ。

そして、このところの日本の新聞記事などを見ていると、「戦中、私たちは米軍の空襲で、こんな悲惨な目に遭った」「戦後、満州(いまの中国東北地方)で散々な目に遭わされた」などといった「被害者」の話が実に多いように感じる。もちろん、そんな体験を語っているのは敗戦時、5歳か10歳、あるいは15歳くらいだった人たちである。『火垂るの墓』の清太や節子と同じく戦争にはまったく責任がない。もっぱら、被った被害の話になるのは仕方がない。だけど、それらを読むと、同時に、ハルビンでの女子学生の指摘を思い出してしまう。
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近年、原爆投下直後の長崎で、ジョー・オダネルという米軍のカメラマンが撮った「焼き場に立つ少年」という写真が報道によく登場するようになった。ローマ教皇フランシスコが注目し、「戦争がもたらすもの」という各国語のカードに載せて、核兵器廃絶を訴えるようになったのがきっかけのようだ(上の写真)。

ジョー・オダネルによると、少年は10歳くらい、幼子を背負い、裸足で焼き場にやってきて、5分、10分と、そのふちに直立不動で立ち尽くしていた。幼子はすでに死んでいた。やがて、順番が来て、幼子は焼かれた。その炎を見つめる少年の唇には血がにじんでいた。炎が静まると、少年はくるりと踵を返し、焼き場を去って行った。この写真をかつての教え子の女性に見せたら、どんな反応が戻ってくるだろうか。

確かに、私たちは先の戦争で甚大な「被害」を受けた。米軍の度重なる空襲や2度の原爆投下による無差別の殺戮は、決して許されるものではない。しかし、その被害の前には、日本軍による「加害」があった。空襲に関して言えば、国民党政府があった重慶に対して繰り返し空爆している。数年前、中国南方の悟州という地方都市でしばらく暮らしたが、こんなところにまで日本軍は空爆を仕掛けていた。私たちは被害とともに、加害ももっと語り継がなければ……新聞などで被害の体験を読むたびに、そんな気持ちが沸いてくる。