「中国人が日本でしてはいけないこと」

中国人の知人が「中国人が日本で絶対にしてはいけない20のこと」という記事を送ってきた。ネットで見つけたとのことで、「電車の中やアパートでは大声で話してはいけない」「道路を歩きながら、ものを食べてはいけない」「夜中に街をうろうろしてはいけない」など、まあ、もっともなことが並べられているのだが、いくつか、「なるほど、そうだねえ」と、あらためてうなずける話もあった。そのいくつかを紹介すると――

まずは「老人にわざわざ席を譲ってはいけない」である。その理由は「日本人は一般に他人に迷惑を掛けたくないと思っているので、老人に席を譲っても、断られる可能性がある」からだ。

僕の経験では、中国人の若者はほぼ例外なく老人に席を譲る。中国で満員のバスに乗って、席を譲られなかった経験は、僕にはない。近くの若者が譲ってくれるだけではなく、バスの奥の方から大声を掛けられ手招きされて、びっくりしたこともある。そんな中国の若者が日本に来て、ごく普通に席を譲ったら、断られて驚いたことがあり、こんな「注意」が書かれたのだろう。

だけど、それでも日本の老人に席を譲りたい時にはどうするか。「どうぞ」などとは言わないで、「降りるふりをして立ち上がり、電車の端の方に行ってしまう」。そう指南している。あ、そうか、僕もそんな風にして席を譲られたことがある。あれは中国人の若者だったのか、それとも日本人の若者も最近はそうするのだろうか。

次に「他人に酒を無理強いするな」というのが目についた。

確かに、中国人と日本人とでは、まず「乾杯」の意味がちょっと違う。中国では「乾杯」という掛け声とともに、盃なりコップの酒を飲み干すのが普通だが、日本ではそうではない。もちろん、飲み干してもいいが、飲み干さなくてもいい。一方、中国では、互いに酒を注いだり注がれたり、次々に飲み干していくのが酒席の普通の流れである。僕は幸い、少々は飲めるので、中国で中国人と酒席をともにしても、なんとも思わなかった。だが、中国人同士でも飲めない人にとっては迷惑な話である。「飲め」「もう飲めない」で、喧嘩寸前の場に居合わせたこともある。

こうした酒の無理強いは近年に始まったことではなく、長年の一種の「文化」なのだろう。例えば、最近亡くなった井波律子さん訳の『三国志演義』を読んでいたら、次のような場面が出てきた。

豪傑の張飛がある日、役人たちを招いて宴会を催し、全員に酒を注いで回った。本人は水牛の角で作った巨大な盃で、続けさまに数十杯を飲み干した。多分、アルコール度は50度かそこらだったのではないか。張飛はさらに、役人たちに酒を注いで回ったが、曹豹という男のところに来ると、「私は実は飲めないのです」と断られた。すると、張飛は「さっきは飲んだくせに……」と逆上し、「お前はわしの命令に背いた。100回の棒叩きだ」と叫んだ。周りのとりなしで、棒叩きは50回になったそうだが、酒を飲むのも命がけである。

もうひとつ「不用意に他人にドアを開けるな」というのも、興味を引いた。そして、ドアを開けてはならない不意の客人は(1)NHKの集金人(2)宗教の勧誘人(3)セールスマンだが、もっぱらNHKの集金人について書いている。

テレビがないのは本当なのに、NHKの集金人が何度もやってくる。アパートを替われば、どこで調べたのか、同じ集金人がまたやってくる。ほんとに困る――そんな中国人の留学生らの話をちょうど1年前のこのブログで書いたことがある。この「ドアを開けるな」でも、「いったんドアを開ければ、何としてもカネを取ろうとします。追い払っても、去ってくれません。家には誰もいないふりをして、ドアを開けないでください」と、指南している。NHKの集金人も一応は「法律」に基づいて回ってくるのだから、ここまで言うのは気の毒なのだが、在日の中国人の若者がそれを怖がっているのも事実であるようだ。

ここに取り上げなかったものも含めて20の「べからず集」を、日本の大学を出て日本企業で働いている教え子の女性にも送り、「どう思う?」と尋ねてみた。すると、「おおむね妥当だとは思いますが、付け加えてほしいものがあります」と言う。それは「満員電車の中では、男の子は手を下ろしてはいけない。上にあげていなさい」ということ。痴漢に間違われないためだそうだ。

なるほど、僕にも、そんな気は全くないのに、手を下ろしていて、痴漢に間違われそうになったことがある。気苦労なことだけど、これは在日の中国人の男の子にぜひ言っておきたい。もし女性から「痴漢です」なぞと叫ばれたら、たとえ「無実」でも、証明するのが大変に難しい。まずは疑われないようにする。それが肝心である。