サッカーの今昔

サッカーのワールドカップ・ロシア大会で6月28日、H組の日本は決勝トーナメントに2位で進出した。勝ち点の多い少ないではなく、試合中に受けた警告(イエローカード)の数の少なさでセネガルを押さえるという、きわどさだった。

1位はコロンビアで、続く日本とセネガルはともに通算1勝1敗1分けで、勝ち点も4と同じだった。勝ち点が同じ場合は、得失点差で順位が決まるが、これもともに0。次には総得点で決まるが、これも4と同じ。さらには、直接対決が2−2の引き分けだったため、警告と退場(レッドカード)の数に基づく「フェアプレーポイント」で決めることになったが、3試合で受けた警告の数が日本は4と、セネガルの6より少なかった。退場はどちらもなかった。以上のおかげで、日本は2位に滑り込んだ。このフェアプレーポイントは今大会から採用された規定だが、これでも決まらなければ、次はくじ引きになるところだった。

警告の数で順位が決まるとは、びっくりだけど、ワールドカップではイエローカードが出ない試合なんて、ないみたいだ。それだけ試合が激しいからだろうが、素人の僕から見ると、「えっ、あの程度でイエローカード?」と思うことがよくある。僕がサッカーに明け暮れていた大学生時代の試合を思い出すからだ。当時は警告なんて、ほとんど耳にしなかった。もう55年から60年も前のこと、僕の大学は関西学生サッカーリーグの1部に属していて、まずまずの強さだった。

そこで僕はフルバック(FB)、今で言うサイドバック(SB)で、タックルの荒っぽさではちょっと鳴らしていた。と言っても、良い意味ではない。僕はもともと運動神経が鈍いせいもあって、ボールにきちんとタックルできず、相手の足まで一緒に引っ掛けてしまう。ボールではなく相手の足さえ止めれば、効果は同じじゃないか。そんな邪悪な考えも頭にあった。チームの正選手になれたのも、やっと4回生になってからという、あまりぱっとしない選手でもあった。

その頃の僕のサッカーを今やれば、間違いなく警告ものだし、退場だってあるかもしれない。当時、仲間が僕のタックルの瞬間を写真に撮ってくれた。それを見ると、相手が明らかにボールを蹴り終わったあとに、僕がタックルに入っている。蹴る対象は相手の足しかない。日本大学アメリカンフットボール部の悪質タックルにどこか似ている。惜しいことに、僕の悪質タックルの写真はどこかに行ってしまったが、大学時代のサッカー仲間に「お前のプレーは今じゃ全く通じないぞ」と冷やかされることもある。

そうは言っても、当時の審判は今と違ってめったに笛を吹いたりはしなかった。相当に荒っぽいことを何回も続けて、口頭で軽く注意を受けたくらいだ。それも僕の記憶では大学時代に1回くらいだし、もう一度やると退場だぞ、といった意味でもないみたいだった。そもそも、イエローカード、レッドカードそのものを当時の審判は持っていなかったようで、どうも危険なプレーに対する規制が緩かった感じがする。

ただ、僕のプレーに対して、相手の選手は怒っていたのだろう。審判の目を盗んで、たまには僕のお尻を蹴りにくる連中もいた。大して痛くもなかったから、「それで気が済むなら」と、少しくらい蹴られても、放っておいた。審判にアピールするなんてことは、全く考えなかった。

そんな僕から見ても、今のサッカーで「荒っぽいな」と感じるのは、競り合う選手が互いに相手のシャツや腕を引っ張り合っていることだ。堂々とやっている感じで、よほどひどくないと、反則にはならないみたいだ。相手の足を引っ掛けたりするのと違って、ケガはまずないからかもしれないが、昔はほとんど見なかったプレーである。

僕の大学時代、当時としては珍しく欧州のプロサッカーに詳しい仲間がいた。その男が言うには、地面にあるボールを前にして2人が肩を寄せ合って競り合う時、片方の手の平を審判からは隠して相手の太腿に当て、その動きを押さえる――そんなのは欧州のプロでは常識とのことだった。感心して僕もたまには試してみたが、手を使うのはその程度だった。

警告のことから日本代表のまともなプレーに話を移すと、昔の僕と同じポジションのSB長友佑都選手のスタミナはほんとにすごいなと思う。守っては攻め、攻めては守り、試合の始まりから終わりまで、まさにどこにでも顔を出している。

能力に天と地ほどの差がある彼と僕を比べるのはおかしいけれど、昔の僕は「攻める」と言っても、ハーフラインぐらいまでしか出て行かなかった。その先はフォワードにお任せだった。僕に限らず、当時のバックスは大体そんな感じだった。フォワードのほうも、今のように自陣のゴール近くまで守りに戻ってくることはまずなかった。守備はバックスにお任せだった。ハーフと呼んでいた連中がフォワードとバックスの間を行き来していた。分業がはっきりしていたと言ってもいい。

あれやこれや、今と比べると、随分と楽なサッカーをやっていた。だから、僕のようないい加減な男でも、一応は大学サッカー部の選手になれたのだろう。テレビでワールドカップを観戦しながら、そんな感慨にふけっている。